昭和硫黄島噴火経緯
火山研究解説集:薩摩硫黄島 (産総研・地質調査総合センター作成)
- 硫黄岳から見た昭和硫黄島(撮影2004年)周囲に温泉による変色海域が見られます
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はじめに
昭和硫黄島は1934年(昭和9年)9月から翌年4月頃までの約半年間続いた噴火活動により形成されました.噴火は硫黄島と竹島の間の水深約300mで海底噴火として始まり,火山体の成長により新たな火山島である昭和硫黄島を形成しました.噴火の推移は田中舘(1935a, b, c, d, e, 1936, 1939)の一連の論文により紹介されており,ここではその抜粋を紹介します.
噴火開始前後の地震活動
記録として残っている,昭和硫黄島の噴火に関連した最も顕著な前兆現象は地震活動(有感地震)です.地震は噴火開始の数日前に始まり,最初の3日間が最も顕著でした.噴火前後の約1週間に地震が頻発し,噴火の継続と共に急速に地震活動は衰えています.
安井(1962)は鹿児島・宮崎両気象台の地震波形記録から硫黄島付近での地震活動を次のように推計しています.地震活動は12日23時過ぎに始まり,13日には100回程度,14-19日は50回/日程度発生していましたが,22日以降には鹿児島・宮崎両気象台では検知されていません.気象庁の震度データベースによると,この期間中,鹿児島市で12日23:20, 20:24, 13日00:35, 02:42の4回の有感地震が記録されています.安井(1962)は鹿児島・宮崎両気象台におけるP-S時間から有感地震の震源を鬼界カルデラ内と推定しています.鹿児島におけるP-S時間は12日には約18秒でしたが,14日には約14秒と短くなっており,震源の北もしくは浅部への移動が示唆されています.
表(地震回数の変化,田中舘(1935a))に田中舘(1935a)が記載した地震回数の変化を示します.田中舘(1935a)の地震回数は,原典には明記されていませんが,硫黄島島内での有感地震の回数と推察されます.田中舘(1935a)によると,地震は9月12日16時頃に始まり,23時20分の強震以降,急激に地震回数が増大しています. 地震は回数としては13日午前中,規模としては14日夜にピークを迎え,その後回数・規模を減らしながらも継続しましたが,噴火開始時期と推定される17日以降急速に活動が低下しています.
地震の振動方向は一般にNE-SWの水平動であり,竹島では硫黄島から,硫黄島では南東もしくは東から振動が来ていました.竹島でも硫黄島と同様の回数の地震が感じられましたが,噴火地点から約40km西に位置する黒島で感じられた地震は13日の1回だけでした.
地震回数の変化は安井(1962)の結果と大きな違いはありません.しかし,硫黄島での最も大きな地震は14日23:50と記述されています.それに対し,鹿児島での有感地震は12日および13日であり,硫黄島での最大の地震は鹿児島では有感地震となっていません.この違いは14日には震源が硫黄島近傍浅部に移動したことを示していると考えられます.
地震活動は噴火開始前に回数や規模が最大に達し,その後回数及び規模が減少しながら震源が浅くなった後に噴火が開始されたと推察されます.この現象は,2000年の有珠火山噴火で観測された変化と同様の現象と考えられます.
噴火
噴火推移概要
昭和硫黄島の噴火は約300mの水深下で生じた海底噴火であるため,噴火の開始時期は明確には結論されていません. 1934年9月17日に海水沸騰や火山灰浮遊などの噴火を示唆する現象が,また,18日には海水混濁が観察されています.20日朝には,明らかな噴煙や軽石による浮石島が確認されています(田中舘1935c).これらのことから,17日に噴火は始まっていたと推定されます.
9月20日以降は海底噴火が継続し,海中からの噴煙・軽石放出が続きました. 12月7日に新島が出現し,陸上での火口丘の成長が記載されています. その後,新島は一度消滅しますが,1935年1月5日に再度出現し,以後,安定に成長を続けました.
噴火規模の明瞭な記述はありませんが,新島からの噴煙活動は3月初旬から次第に低下し,4月1日には非常に弱くなったと記述されています(田中舘,1936).噴火活動もほぼ,これと同期して停止に至ったと推定されます.
噴火位置
海底噴火による噴煙は当初2箇所から立ち上っていたと記述されています(田中舘1935b).主なものは現在の昭和硫黄島の位置であり,加えて9月26日撮影の航空写真には,昭和硫黄島の北西約3km,竹島と中間位置から立ち上っている噴煙の様子が残されています.ただし,この二つ目の噴煙についてはその後の記載はないため,短期間で活動を停止したと考えられます.その他にも,島民による多数の異なる噴煙位置の伝聞がありますが,いずれも継続的な報告はありません.次節で述べるように,浮き軽石からも水蒸気が放出されていたために,噴火中心を見極めることが困難であったとも考えられます.
海中噴火
噴火は当初,水深300mの海底で生じていたため,海上で観察されるのは主に噴煙と浮き軽石でした.水柱を上げたことは無く,10月下旬に至るまで音響(爆発音)も聞かれませんでした(田中舘,1935b).噴煙は9月21日にはすでに高度1000mに達しています(田中舘,1935d).
田中舘(1935c)には浮き軽石は,粒径が数mでパン皮状の表面を持つものが多く,内部は赤熱し,白煙を放出しており,そのガスの放出が少なくなれば沈む,と記載されています.浮き軽石は海流によって数km以上も流れされており,その軽石流の周辺には変色海水が観察されています.
浮き軽石から放出された白煙も高度800-1000mまで上昇していたとの報告がありますので,噴火地点での噴煙が,浮き軽石の表面から放出されたものだけであるか,海中から上昇したものもあるかは定かではありません.浮き軽石周辺での亜硫酸ガス臭の記載はありますが,その後の陸上噴火の噴煙とは異なり噴煙は白煙である,との記述があるので,噴煙は主に海水の蒸発によるものであったと推定されます.
噴火初期には降灰の記載はなく,11月25日に初めて降灰の記録があり,12月初旬から降灰が盛んになっています(田中舘,1935b,c).同様に噴火初期には島内での火山ガスの影響は希でしたが,10月初旬に亜硫酸を含む雨が硫黄島に降り,11月5日には土壌に亜硫酸が検出されています.海底火山の成長により,火口が海面近傍に至り,火山灰や酸性ガスを直接放出するようになったと考えられます.
陸上噴火・昭和硫黄島成長
12月初旬に噴煙量が急増し,12月7〜8日に新島が出現,その後火口丘が成長しました.12月23日までには高さ20-30mに成長した火口丘は,12月25-30日に一度(崩壊・噴火により?)消滅しましたが,1935年1月5日に再度出現し,その後は安定に成長を続けました(図:昭和硫黄島形成過程).
噴火が陸上で起きるようになって以来,溶岩はパン皮状浮き石ではなくスコリア(火山弾)となり,ストロンボリ式噴火を起こすと共に溶岩流も生じました(田中舘,1935b).ストロンボリ式噴火(発作的噴火とも記載)は周期的に生じ,夜には火柱や赤熱溶岩塊の放出として報告されています.
田中舘(1935d)は1月19日の噴火の繰り返しの推移を以下のように報告しています; 「噴火は1〜3分間隔で,先ず20〜120秒の鳴動が生ずる. その轟音は次第に近くなり大砲の音で終わる. 鳴動の5-10秒後,白煙の中に黒煙が盛り上がり,その中から溶岩塊が放出される. 発作噴煙はやがて白煙となる.」
噴火が陸上で起きるようになって以来,噴煙量・降灰量が増大し,硫黄島における火山灰の被害や煙害も増大しました.特に12〜2月には島内での降灰・ガス雨の記述が繰り返され,1月22日の測定では硫黄島での雨水のpHは5.3の酸性でした(田中舘,1935d).
噴煙・噴火活動の減衰に関する記述は少なく,特に活動の終息時期は明記されていません. 田中舘(1936)においても,3月1日「近頃,灰,ガス混じりの雨降らず」,4月1日「新島の噴煙の量大いに減ず」以外の記載がありません.3月8日には,昭和硫黄島に上陸した島民が5分周期の噴火と灰煙の放出を確認しており,噴火が継続していたことは間違いありませんが,おそらく3月以降,噴火活動が低下して,4月初旬にはほぼ終息したと推定されます.
温泉と火山ガスの変化
硫黄島島内には数多くの温泉が湧出しています.地震活動と共に島内の温泉の温度などにも噴火の前兆現象が現れています(田中舘1935c).9月16日朝に部落の海岸の温泉温度が45-48℃に上昇し,また,その周辺の岩盤に幅1m,長さ0.5〜2.0mの亀裂が生じていました.また,硫黄島港の温泉は17日夜に熱くなり入浴できなくなりましたが,18日の朝までに温度は元に戻った,と伝聞されています.
昭和硫黄島の噴火に関連した,硫黄岳の噴煙(火山ガス)の変化の記述も残っています. 1933年末から1934年1月の口永良部島の噴火以降に硫黄岳噴煙が減ったとの記載があります(田中舘,1935d).また,鈴木(1936)は噴火の四ヶ月前に撮られた写真では噴煙量が噴火後と比べて非常に少ないと指摘しています.昭和硫黄島噴火の直前・直後の硫黄岳の噴煙について記載はありませんが,噴火後(詳細時期不明)には噴火前の4〜5倍に増加したとされています(田中舘,1935b).
地殻変動と噴出量
昭和硫黄島の噴火に伴い,硫黄島・竹島は沈降しています.田中舘(1936)は以下に述べるように地殻変動と噴出量が同程度であり,沈降が噴出により生じていることを示唆しています.
「竹島・硫黄島の海岸線および島内の地下水位などの変化から,竹島の中部と硫黄島の一部は噴火後に少なくとも0.7〜1m沈降している.仮に直径15kmのカルデラが平均1m沈降したとすると,沈降量は0.18km3となる.
それに対し,新島を底面半径500m,頂面半径250m,高さ500mの円錐台とすると,体積は0.184km3となる.浮遊軽石として等量消失したとすると,噴出量は0.37km3と推定される.主に軽石として放出された噴出物の密度が地殻の密度の半分と考えると,沈降と噴出量はほぼ等しくなる.そのため沈降は噴出により生じたと考えて矛盾はない(田中舘,1936).」ただし,沈降量,噴出量の見積り双方の定量性には大きな不確定性があることには留意が必要です.
噴出量0.37km3の推定には大きな誤差が含まれますが,桁としては正しいと考えられます.昭和硫黄島の噴火によるマグマ噴出量は,1990-1995年の雲仙平成新山噴火のマグマ噴出量(0.18km3)に匹敵もしくは上回るものであり,昭和での最大規模の噴火であったと言えます.
引用文献
鎌田政明(1964)鹿児島県硫黄島の火山と地熱. 地熱, vol.3, 1-23.
鈴木 醇(1936)吐噶喇火山群島を廻りて. 火山, vol.2, p.297-326.
田中館秀三(1935a)昭和9年鹿児島県硫黄島付近噴火資料. 岩鉱, vol.13, p.184-190.
田中館秀三(1935b)硫黄島新島噴火概報. 岩鉱, vol.13, p.201-213.
田中館秀三(1935c)昭和9年鹿児島県硫黄島付近噴火資料(続). 岩鉱, vol.13, p.283-288.
田中館秀三(1935d)鹿児島県下硫黄島噴火概報. 火山, vol.2, p.188-209.
田中館秀三(1935e)硫黄島新島及び武富島噴火岩の化学成分. 岩鉱, vol.14, p.36-38.
田中館秀三(1936)薩南硫黄島新島第2回調査概報. 岩鉱, vol.16, p.67-74.
田中館秀三(1939)薩南硫黄島新島(昭和硫黄島)発達の過程. 地質雑, vol.46. p.279-280.
安井 豊(1962)南九州の群発地震についての一調査.験震時報,vol.27, p.9-24.
(篠原宏志)