向山火山(My1,My2 及び My3)
新島の南半部を構成する火砕サージ堆積物(Myl)・火砕丘(My2)及び溶岩円頂丘(My3)を向山火山と呼ぶことにする.これら三つの単元の間には,風化帯によって示されるような時間間隙は認められないので,一輪廻の噴火の産物である.この火山は辻村(1918)の向山火山(白ママ層+大峰ホマーテ+石山トロイデ),津屋(1938)の白ママ層+向山熔岩及び同灰砂層,宮地(1965)の向山ホマトロイデ,横山・徳永(1978)及び徳永・横山(1979)の向山火山に相当する.
火砕サージ堆積物(Myl)は現海面からの高さ約100m,フライパンを伏せたような低平な丘を形成している.地質図上では省略してあるが,同種の堆積物は北にある峰路山・赤崎峰・宮塚山,北西4kmにある地内島,及び南西5km にある式根島をも覆っていることから,噴出直後はかなりの広範囲,径数km とか10 kmの範囲に広がったものと思われる.新島と式根島とは陸続きになっていたとの口碑があるが,少なくとも噴出直後はそのような状態であったのかも知れない.この堆積物は現在では著しく侵食され,特に東岸の羽伏浦では,長さ5 kmにわたる海食崖にその断面が観察される.
この低平な丘を構成する堆積物は,緻密ないし多孔質の黒雲母流紋岩火山灰,火山礫及び火山岩塊を主体とし,そのほかに少量の変質した凝灰岩,変質した斜方輝石角閃石デイサイト,マイアロリティック孔隙を有するトーナル岩(黒田・安部,1958),苔虫・石灰藻などの化石を含む礁状石灰岩(大森・磯部,1974) などの角礫及び亜円礫からなる.
この堆積物を構成する物質ほ粒産もかさ比重も多様であり,また砂波状(sandwave beds),平板状(planar or plane beds)及び無層理塊状(massive beds)の堆積構造を示している(第21図).場所によっては,大型の軽石質岩塊あるいは石質岩片からなるレンズ状体が含まれる.このように複雑な堆積構造を示すため,同時面の追跡は困難である.横山・徳永(1978)及び徳永・横山(1979)は,降下火砕堆積物が何層か挟まれると記述している.彼等は全体的に粗粒で,粒間の空隙に富み,側方への層厚変化が少な く,かつ数百m以上追跡できるという点をその判断規準としている.しかし,サージ堆積物についてのMdφ-σφ図を見ると,測定点の大部分は火砕流と降下火砕堆積物との範囲が重複した領域に落ちている.すなわち,粒度組成の解析からは両者の識別はつかない.したがって,上述の規準は十分なものとはいえない.現著者は降下火砕堆積物の挟在を現地で確認することはできなかった.砂波状などの堆積構造から,この堆積物を火砕サージ堆積物と見なすことは許されるであろう.
流れの向きは左から右へ.新島東岸羽状浦,ヘリポート下,海食崖の高さは約25m.
(図幅第27図)
島の南半を取り巻く海食崖は垂直に近く,近接して崖の全面を観察することは困難であるが,概観すると,下部は平板状の構造が,上部は砂波状の構造が卓越している.亀見森から佐島にかけての海食崖では,後者の上半は波長が数m以下で,下半部に比べると際立って短い.横山・徳永(1978)及び徳永・横山(1979)はこの堆積物の粒度組成や堆積構造を記載し,火砕サージの進行方向や堆積構造の横への変化を論じた.しかし,堆積構造だけからでは,その流速の緩急を論ずるのは難しい.
間々下浦の南端,粘土山の海食崖では,火砕サージ堆積物の一部がレンズ状(厚さ15-20m)に緑色粘土化ないし膠結している.膠結した部分には,一見「大谷石」に類似した岩相のもの(GSJ R34173 及び34213)まである.このレンズ状体の上下は,粗鬆な白色軽石質黒雲母流紋岩火山灰ないし火山礫であるが,レンズ状体中の斑状苦鉄質珪酸塩鉱物はカミングトン閃石であり,黒雲母は認められない.このレンズ状体の形成機構はよく分からない.
火砕サージ堆積物は,新島南端においては,丸島峰火山の円頂丘溶岩からなる垂直に近い崖にアバットしており,鳥ヶ島の北方200m の海食崖では,大三山火山砕屑性堆積物からなる急崖に同様にアバットしている.峰路山・赤崎峰及び宮塚山では,風化火山灰で示される旧地表面をほぼ平行に覆っている.現著者は以前に(一色,1973),山地を覆うものは降下火砕物と考えたが,斜交層理が観察されることから,この部分も火砕サージ堆積物とした方がよい.
赤崎峰の南端,富士見峠(海抜約260m; 巻末付図,3308b 地点.北緯34°22.9′,東経139°15.9′)の道路切り取りでは,4 枚の火砕物層が露出している.最上位にある厚さ2.2 m,層理の明瞭な軽石層が向山火山の火砕サージ堆積物で,ここでは主として白色ないし黄白色の黒雲母流紋岩の軽石質火山灰ないし火山礫からなり,軽石の最大粒径は8cm に達する.石質岩片も含まれており,その最大粒径は10 cm である.この堆積物の下底から15cm までの間に,径数cm 以下の炭化した丸木が横倒しになって含まれている.根の部分はここでは見いだされていない,このような炭化木の産状はこの堆積物が高温の流れの産物であることを支持している.採取した試料のうち,径約2cm の丸木2 本分から得られた14C 年代は1120 ± 75y. B. P. (GaK-4560, NI73030803.試料残なし)で,西暦830年前後の年代を示している.
火砕サージ堆積物からなる低平な丘の上に,比高約200m の火砕丘(My2)が載っている.両者の間に風化帯はなく,整合・一連である.火砕丘を構成する物質は軽石質の黒雲母流紋岩火山灰ないし火山岩 塊で,少量の石質岩片を伴う.山頂火口は少なくとも5 個あり,すべて北東壁が高い.火砕丘の外側斜面は傾斜二十数度で,その北東部と南部とは原地形を保っているが,東部の亀見森では,その脚部の海食が激しいために崩壊が進行し,1947 年10 月28 日撮影の垂直空中写真では山腹裸地は火口縁までは達していないが,1965 年7 月16日撮影のものでは火口縁のすぐ近くまで達しており,更に1978 年11 月5 日撮影のものでは火口縁が130m 以上侵食されている.また,北腹の中沢(なかんざわ)では,ほかとは異なり,細かい谷地形が発達している.横山・徳永(1978,p. 251,Fig. 1)及び徳永・横山(1979,p. 112, 表紙写真)はこの部分をPre-Mukaiyama volcanics としているが,その理由を明示していない.構成物質は山体のほかの部分と同じ黒雲母流紋岩の火砕物であり,別の地質単元とするには根拠薄弱である.しかしながら,この対照的な地形の成因については,現在までのところ,不明である.
タジン沢を囲む火口はその北東にある火口に切られているが,ほかの4個の切り合いは不明瞭である.恐らく,タジン沢を囲む火口が最初に活動し,その北側に北西- 南東に配列する火口はほぼ同時に活動したものであろう.火口壁の北東側が高いのは南西の風が強い期間に噴火が続いたことを物語っている.津屋(1938,p. 192)は火砕丘の西半が欠けている理由として爆発・破壊によるとしているが,その証拠は野外では見いだされていない.宮地(1965,p.652)は火口壁の北東側が高い理由として,(1)偏西風プラス卓越風,(2)火道の向きの二つを考えたが,火道が垂直ではなく,高角度ではあるが傾斜している(宮地,1965,p. 652, 第5図)というのは多くの事例から考えにくい.風向に支配されたとするのが一番妥当である.
火砕丘の火口底を埋め,一部は火口壁を破って,面積約3.3km2,最大の厚さ200 m の黒雲母流紋岩溶岩円頂丘( My3 ) が広がっている.円頂丘の表面には,長く伸びた丘陵や凹地が複雑に発達し,その高低差は数十mに達する.この表面起伏は,津屋(1938,p.190-192)や徳永・横山(1979,p. 121)が述べているように,溶岩流の表面に一般に見られるしわ模様であり,その弧の南東への張り出しから,溶岩流の少なくとも東半は北西から南東へ流れたものと判断される.ほかの部分についてはあまり規則性は見られない.
円頂丘溶岩の北部は二つのローブに分かれており,空中写真では,その北端で,西ローブが東ローブを覆っているように判読される.両ローブの間,石山の抗火石採掘場東側の道路沿いには数百mにわたって,断続的ではあるが,厚さ4m を超える黒雲母流紋岩の軽石質火山灰ないし火山礫層が露出している.その最南端では,溶岩流の塊状表面を級化層理を示す軽石層が覆っているが,その傾斜は55° と急であり,安息角をはるかに超え,異常である.円頂丘の北端のヘアピンカーブのある道路沿いにも,急傾斜で層理にくい違いのある軽石層が点々と露出している.これらはやや固結した軽石層がブルドーザーのように前進する溶岩流によって押し上げられて変位したものである.
火砕サージ堆積物・火砕丘を構成する本質物質及び円頂丘溶岩はすべてよく似た黒雲母流紋岩である.
黒雲母流紋岩(GSJ R34175/NI71061203):新島南部,丹後山東方,道路傍.円頂丘溶岩.この標本は灰白色で長石・石英及び黒雲母の斑晶が目につく.鏡下写真では第22図,
向山火山円頂丘溶岩,新島南部,丹後山東方
(図幅第VII図版2)
向山は,最新の単成火山であり,14C 年代や出土遺物の推定年代からみて,中村清二(1915)や辻村(1918,p. 89-91)の説くように,日本三代実録・日本紀略・扶桑略記などの古文書にある仁和(にんな)2 年5 月24 日(西暦886 年6 月29日)からの安房(あわ)国(房総半島南端部を占めていた行政区画)南方海上で起こった噴火とみられる事件は,この火山の形成に関連したものである確度が高い( 一色,1973).扶桑略記(黒根編,1932 による)には次の記事がある.
〔仁和二年五月〕 廿六日甲辰.降雨.天東南有声如雷.〔仁和二年〕八月四日庚戌.安房国言.去五月廿四日夕.有黒雲.自南海群起.其中現電光.雷鳴地震.通夜不止.廿六日暁電風.巳時天色清朗.砂石粉土遍満地上.山野田園無所不降.或所厚二三寸.或処僅蔽地.稼苗草木皆悉凋枯.馬牛食粘粉草.死斃甚多.〔仁和三年〕十一月二日.伊豆国献新生島図一張.見其画中,神明放火.以潮所焼.則如銀岳.共頂有緑雲之気.細事在図中.不更記之.
噴火の時期は太陽暦に直すと6 月下旬,この季節の新島は南西ないし西南西の風が一番強く( 東京管区気象台,1970),房総半島南端部に降灰する可能性は大きい.火砕丘の北東火口壁の高いこともこの可能性を支持する.