式根島火山(Sk 及び v)
新島の西岸,新島(黒根)港の南西約5 kmにある式根島を構成する流紋岩溶岩及びそれを覆う火山砕屑性堆積物を式根島火山と呼ぶことにする.式根島火山の地質については,既に現著者によって,「神津島地域の地質」(一色,1982)の中で公表されているが,その一部を改訂して以下に記述する.
この火山の主体を構成するものは南北2.3km,東西3km,海面上の厚さ110mで,東北東へ緩く傾斜した台状の溶岩円頂丘である.しかし,細かく見ると,その表面は小起状に富み,中でも北北西-南南東に伸びる山稜と,同方向の海岸線の湾入が目立つ.これらは粘性の高い溶岩の流動方向に直交するしわのなごりとみてよい.溶岩の表層部は軽石質かつ塊状であるが,カンビキ浦の西岸,黒石と呼ばれている海食崖には黒曜岩質の部分が露出している.流理構造の系統的測定は行わなかったが,一つの露頭内でも複雑に屈曲しており,溶岩円頂丘の外形との関係を推定し得るような単純なものではない.
平床岩の南約200mの海岸近くで,この円頂丘溶岩(黒雲母流紋岩)の中に露頭面で約15 × 15cm の角張った花崗岩質捕獲岩が見いだされた.捕獲岩の奥行は4cm 程度であった.
円頂丘溶岩は局部的に火山砕屑性堆積物(v)に覆われる.この堆積物は主として軽石質及び緻密ガラス質の流紋岩(円頂丘溶岩と同質)の火山灰ないし火山礫からなり,無層理であるか弱い層理を有する.固結度は低い.“氷長石化”で特徴付けられる変質を受けた流紋岩角礫をまれに含む.
野伏港の南東約200m,新道と旧道とが交差する付近(民宿かめのこう,しんどう入口)の新道の切り取り(第9図の531b 地点)では,第6表に示すような関係が観察される.
(図幅第16図)
(図幅第10表)
(1)の火山灰ないし火山礫からなる堆積物は下位の円頂丘溶岩にアバットすること,層理の発達が悪いことなどから,“流れ”の堆積物と思われるが,露頭が限られていることから,その供給源や堆積機構については不明の点が多い.ここでは,成因に無関係な火山砕屑性堆積物という言葉を使用しておいた.後の堆積物に覆われ,必ずしも露頭が十分ではないので,地質図ではその分布が確かな地域だけを地紋で示してある.構成礫は主として軽石質及び緻密ガラス質の黒雲母流紋岩で,ほかに極めてまれに,粘土化などの変質を受けた凝灰岩?(GSJR34250)や“氷長石化”で特徴付けられる変質を受けた流紋岩が含まれる.
円頂丘溶岩( Sk) あるいは火山砕屑性堆積物( v)を覆って,何枚かの飛砂及び(あるいは)流砂(後述)と思われる堆積物がある.更にこれらを覆って,神津島天上山形成の際の火山灰層と新島向山火山形成の際の軽石層とがある.
野伏の三叉路から野伏港に下る道路の西側切り取り(第9図の806A 地点,第10図) では,第7表に示すような関係が観察される.
(図幅第17図)
(図幅第11表)
小浜港の南約100mの道路切り取り(第9図の527b 地点)では,第8表に示すような関係が観察される(第14図も参照のこと).
(図幅第12表)
これら2 地点で見られる( 1) の一見無構造の風化火山灰にはその直下にある溶岩や火山砕屑性堆積物がその位置で風化した結果生じたものだけではなく,ほかから移動して堆積したものも含まれる.
北岸,吹之江の南東にあるヘリポートの切り取りでは,向山軽石層・天上山火山灰層の下位に,時に斜交層理の見られる,黄色あるいはオレンジ色がかった,汚れた感じの流紋岩質砂層が露出している.この砂層の中には,第11図に示すように,連続性の悪い暗色帯(風化帯)が何枚か見られる.これら暗色帯は上下の境界が不明瞭で,炭化木小片を含むことが多く,また,縄文土器片黒曜石片が出土することがある.少なくとも一時的にはこれらの部分が当時の地表であったとみて間違いない.時に斜交層理の見られることから,砂層は飛砂及び(あるいは)流砂の堆積物であろう.非常に粗鬆な堆積物であるので,砂の移動に際して下位の砂が風化部を含めて削り取られ,暗色帯(風化帯)が連続しなくなったとみられる.ここでは,下位にあると想定される円頂丘溶岩との関係は不明である.
bs:飛砂及び(あるいは)流砂,Tj:天上山火山灰層,My:向山軽石層
(図幅第18図)
天上山火山灰層としたものは黒雲母流紋岩質で,島内では厚さ20-30cm,まれに100cm 前後に達することがある(第12図).この火山灰層は,上述のように,806A地点やヘリポートでは,もとの地形の凹凸に沿って砂層を覆い,狭い範囲内では厚さもほぼ一定であるが,斜交層理の見られることから,通常の降下堆積物ではない.“流れ”の要素を含む堆積物とみる方が穏当である,鮫島(1957)は明確な根拠を示さずに,この堆積物を天上山火山灰層としている.しかし,この火山灰層は黒雲母流紋岩質で,後述するように,ヘリポートの東南東側切り取りで,直下の褐色砂中から8世紀終末の年代を示す土師器及び灰釉片が,上部の黒土中から9世紀中頃の年代を示す土師器及び須恵器片が出土したことから,続日本後紀巻第七及び巻第九に記述されている承和5 年(西暦838 年)の上津島(神津島天上山形成の)噴火の堆積物とみて差し支えない.
(図幅第19図)
向山軽石層としたものは天上山火山灰層を覆い,島の東北東部の小浜付近で一番厚く約350cm,西南西に行くに従って薄くなり,カンビキ浦と御釜(みかわ)湾とを結ぶ付近で50cm に減少する(第13図).この軽石層はヘリポートなど大きな切り取りで見られるように,天上山火山灰層が示すもとの地形の凹凸に沿って堆積し,狭い範囲内では厚さもほぼ一定であるが,斜交層理がしばしば認められることから,“流れ”の堆積物,すなわち,火砕サージ堆積物とみてよい.構成物質は黒雲母流紋岩軽石が主体で,ほかに緻密ガラス質の黒雲母流紋岩片があり,異質岩片として石英・粘土鉱物・アルバイトなどを生ずるような変質作用を受けたデイサイト(GSJ R34249),斜方輝石が完全に粘土鉱物化したドレライト(GSJR34248)などが含まれる.主体を占める軽石の粒径は東北東部では最大5cm 程度,平均2-3cm であるが,西南西へ行くに従って減少する.
打点部は凹所あるいは当時の海域を埋積した部分.単位:cm
(図幅第20図)
石白川の海抜10m前後の低平地や東岸の二・三の小湾入の奥部には,軽石質及び緻密ガラス質の黒雲母流紋岩火山灰ないし火山礫からなり,少量の角閃石流紋岩や異質岩片を含む,葉理の発達した堆積物が露出している(第13図の打点部).石白川海岸の西端では,この堆積物は円頂丘溶岩にアバットしている.旧新島本村役場支所の東方にある井戸(正確な位置は不明.恐らくこの堆積物に掘削されたもの)では,深度約8mの底部から海浜礫と同様な円礫とともに貝殻が出土したといわれている(1960年8月,当時の肥田支所長談).これらは海浜を埋めた火砕サージ堆積物である.
この軽石層は東北東(新島の向山)に向かって厚さも粒径も増大すること,上述のようにその直下から9世紀中頃の土師器及び須恵器片が出土することから,日本三代実録・日本紀略・扶桑略記などに記述されている,仁和(にんな)2年(西暦886年)の安房国南方海上(新島における最新の火山,向山)の噴火(例えば一色,1973) の際の堆積物とみて差し支えない.火砕サージ堆積物と考えられる.
式根島の表層部を構成する上記堆積物の地質柱状図は第14図に,柱状図作成位置は第9図に示されている.これらについて以下に若干の記述を行う.ヘリポートの切り取り面での柱状図作成位置は拡大して第15図に示されている.
1:縄文時代早期末葉土器片及び黒曜石片,2:縄文時代前期後葉土器片及び黒曜石片,
3:縄文時代前期後葉-末葉土器片及び黒曜石片,4:縄文時代前期末葉土器片及び黒曜石片
5:土師器及び灰軸片,6:土師器及び須恵器片
(図幅第21図)
(図幅第22図)
ヘリポートの526c地点(ヘリポート拡張のため削平されて現在はない),913a地点及び912b地点での野外観察の結果は第13-15表にそれぞれ示されている.
(図幅第13表)
(図幅第14表)
(図幅第15表)
吉田・小林(1985),吉田(1985年3月私信)及び東京都教育委員会(1985,p.63,図F)によれば,ヘリポート西北西壁切り取りの北部から掘り込まれた3m 四方のトレンチから,鉄製の太刀・鏡形製品・鉾身・短刀と完形あるいは完形に近い須恵器・土師器が見いだされた.出土層準は上記912b地点の層準(2)に相当する厚さ10cm足らずのやや風化した褐色砂とその下の明灰黄色層との境にあり,その年代は出土した須恵器の型式から,8世紀中葉頃として大過ないと思われている3).
806A地点と泊との中間にある帆縫原遺跡では,上記912b地点の層準(3)の下位の黒土から,縄文時代中期初頭から同期末までの多量の土器片・石器及び石囲炉跡が出土した(河内,1984).
式根島には縄文時代早期後半と前期後-末葉から中期(主として前半)にかけて人々が渡来したが(東京都島嶼地域遺跡分布調査団,1981;河内,1984;小田,1984;早川,1984;吉田・小林,1985),砂の定着が悪く,生活環境は決して良くなかったと思われる.
武笠(1984a)によれば,第16図の806A地点に近い野伏遺跡では,8世紀中葉を主体とし,7世紀末から8世紀後葉にわたる須恵器・土師器及び灰釉陶器,9 世紀後半の土師器及び灰釉陶器,及び10 世紀前半の土師器が出土している.また,武笠(1984b)によれば,ヘリポートの吹之江遺跡からも8世紀中葉を主体とする土師器,9世紀後半の土師器のほかに,須恵器小片が出土している.しかし,両遺跡とも出土層準に関する記述が欠けている.10世紀前半の土師器が出土するということは,新島の向山火山形成(西暦886年)の際の火砕サージが堆積後,数十年もたたないうちに,平安時代人が来島したことを示している.
式根島の湾入部には,砂及び礫からなる海浜堆積物が小規模ではあるが分布している.
地質図には,主体を占める式根島火山溶岩円頂丘(Sk)と火山砕屑性堆積物(v)のみが示されている.
3) 東京都教育委員会(1985,p.62)は「式根島の吹之江遺跡からは平安時代の信仰に関係する刀,鉄鏡,刀子や須恵器が本土に向いた山麓部に発見され,また火山灰との関係・白ママ層の下で灰トジ層の上部に包含されていました.灰トジは,西暦838年噴火の神津島天上山(てんじょうさん)の噴出物です.」と記述しているが,「白ママ層の下で灰トジ層の上部」というのは誤りである.