天上山火山(Tj)
島の中央部を占め,島内で最新の火山を地名を採って天上山火山と呼ぶことにする.この火山は,続日本後紀に詳述されているように承和5年7月5日(西暦838年7月29日)から始まった噴火によって形成されたものであり,基本的には(1)火砕流と火砕サージ(あるいはイグニンブライト被覆)堆積物.(2)火砕丘と降下火砕堆積物,及び(3)溶岩円頂丘とそれに伴うクランブル角礫岩とからなり.(1)→(2)→(3)の順に噴出したものである.火砕流堆積物は多幸湾,長浜,沢尻湾及び前浜に沿った低所に段丘状の地形を呈して分布している(第18図).火砕サージ(あるいはイグニンブライト被覆)堆積物は旧火山体を覆って,全島的に広く分布している.火砕丘及び溶岩円頂丘は,もちろん,天上山周辺に見られる(1),(2),及び(3)はそれぞれ Tsuya(1929)の白ママ層,円錐丘軽石層及び第四期の天上山溶岩に,そして谷口(1977)の第III期の白ママ火山砕屑岩,白島とクシガ峯の軽石丘,及び天上山溶岩円頂丘に相当する.
(図幅第21図)
火砕流堆積物としたものは,低所を埋めるように分布する,大まかな層理の見られる,淘汰の悪い軽石層(第19図)のことである.この軽石層には部分的に斜交層理の発達することがある.その構成物質の主体は火山灰から火山岩塊に至る様々な粒度の黒雲母流紋岩軽石で,そのほかに発泡の進んでいない微密な黒雲母流紋岩片やアルバイト化,緑泥石化,緑れん石化などの変質を受けた,苦鉄質ないし珪長質の火山岩及び火砕岩の岩片などが少量含まれる(第20図).変質岩は神津島の流紋岩単組成火山群の基盤を構成していると考えられる,新第三紀火山岩累層から由来したものであろう.神津島村郷土資料館には,多幸湾の中央部,はしりと呼ばれている所で採取された花崗岩質岩塊が所蔵されしている.恐らくその付近の海食崖に露出している,この火砕流堆積物中に異質岩塊として含まれていたものであろう. 筆者は現地で時間をかけて注意深く探したが,類似の岩塊を見いだすことはできなかった.非常にまれにしか含まれないものなのであろう.この堆積物の特に下部には,太さ20cmに達する炭化木片が含まれる.この火砕流堆積物は,多幸湾の東北東端では,砂糠山火山稜溶岩流をほぼ垂直に切った旧海食崖にアバットしているのが良く観察されるが,西南西端では,幅10mにわたって草に覆われ,松山鼻火山稜円頂丘溶岩との直接の関係は見られない.多幸湾沿いではその厚さは30m程度で,火砕丘を構成する軽石質火山角礫岩に覆われる.多幸浜の海食崖で採取した炭化木片(NI 76053001)の14C年代は1560± 120y.B.P.(GaK-6407)であった( 第2表).長浜では,この堆積物は厚さ約50m,長浜火山稜溶岩流にアバットする形で海岸段丘状に分布している.長浜の北部では,流紋岩溶岩の塊状部を覆って,海抜数 mに露出する礫層を更に覆っている.長浜中央部の海食崖で採取した炭化木片(NI 60080203b)の14C 年代は1260±80y.B.P.(GaK-477)及び1230±80y.B.P.(TK-76)であった(第6表).沢尻湾では,その厚さは最大約40m,西へ向かって堆積面は低くなっている.湾奥では,海抜数ないし10mの流紋岩角礫岩の起伏ある面を埋め立てるように,時に径170cmに達する円礫からなる礫層が分布し,それを覆って白色軽石質及び灰色・緻密でガラス質の黒雲母流紋岩火山礫ないし粗粒火山灰(下)―灰白色火山灰 (上)からなる厚さ20-30cmの単層の数枚の繰り返しがあり,更にこれらを深く切り込んで無層理の流紋岩火砕物が覆っている.下部の単層には炭化木片が含まれる.前浜では,この堆積物は旧山体に接する東部では海抜約50m,海岸付近では約30m,西へ緩く傾斜する海岸段丘状の地形を示している.南端では,面房火山稜溶岩流をほぼ垂直に切った旧海食崖にアバットしているのが良く観察されるが,北端では,その関係ははっきりはつかめていない.大まかな層理の見られる淘汰の悪い堆積物で,構成粒子は角張っているか,やや角がとれており,その粒度は火山灰ないし火山岩塊と変化に富む(第21図).構組成物質の主体は本質の黒雲母流紋岩軽石及び発泡の悪い緻密なガラス質片であり,ほかに異質岩片が少量含まれる.堆積物の中程の層準に岩塊に富む薄層が見られる.
(図幅第22図)
神津島多幸湾西南西端近く
(図幅第VI図版2)
(図幅第23図)
火砕サージ(あるいはイグニンブライト被覆)堆積物としたものは,Tsuya(1929,p.277)が高処山と秩父山稜間の峠(の羽根峠)の平坦地で見いだした,秩父山軽石層の表層風化部(黒土)を覆う白ママ層に相当する.赤羽根峠の切り割りの下部は,現在,擁壁に覆われてしまっているが,かつては道路南西側 (722A地点)に第22図に示すような露頭が観察された.ここでは下位から上位へ,斜交層理の見られる軽石層(厚さ200cm以上.以下括弧内は厚さ)―細い炭化木片を含む明色褐ローム(60cm)―細い炭化木片を含む暗褐色ローム(10cm),白褐色砂(25cm),帯褐色粗粒砂(上部が褐色に汚染されている.50cm),白色砂―白褐色砂―暗褐色砂(全体で130cm),白色砂―帯橙白色砂―炭化木片を含む厚さ5cmの 暗褐色砂(全体で130cm),帯白色砂(130cm,上部5cmには炭化木片が含まれ,黒味を帯びている), 帯白色砂(35cm)―細い炭化木片を含む暗褐色砂(15cm),白色砂(4cm)―暗褐色砂(1cm),石質岩 片を含み平均粒径が1-2cmの軽石層(100cmもとの地形に沿って堆積した,斜交層理の発達した火砕 堆積物)の順に堆積している.この露頭の最下位層は秩父山火砕堆積物で,最上位層が火砕サージ(あるいはイグニンブライト被覆)堆積物( 第23図)である.天上山火山形組成に神神,この火砕サージ(あるいは イグニンブライト被覆)堆積物は全島的に分布しており,特に島の南部では道路が整備されているので, その切り割りの上部によく露出している.この堆積物は高処山稜南東麓やの羽根峠から多幸浜への都道 224号線の切り割りでは厚さ3-4m,南西へ向かって厚さを減じ,神津島灯台近くでは50cmである. その下部には時に炭化木小片が含まれる.低所を埋めて分布する火砕流堆積物本体との上下あるいは連 続関係は確認されていないが,縄文時代前期の土器から平安時代の須恵器までのすべてがこの堆積物の 下位から出土している.
Cb:秩父山火砕堆積物;bs:砂層(飛砂);Tj:天上山火山形成に伴う火砕サージ(あるいはイグニンブライト被覆)堆積物
(図幅第24図)
物指し(長さ20cm)より上の部分 赤羽根峠付近
(図幅第25図)
火砕丘は円頂丘溶岩及びそれに伴うクランブル角礫岩に覆われ,天上山北西部や南南東部の多幸湾に面する急崖などにその一部が露出しているに過ぎない.天上山稜北西部,白島と呼ばれる所は主として黒雲母流紋岩からなる火砕丘の一部で,神津沢の源流近くの右岸では,那智山火山稜円頂丘溶岩を覆う秩父山火砕堆積物の風化面を火砕丘を構組成する軽石層が更に覆っている.ここでは,火砕丘は基底から火口縁までの比高が約200m,東半は後の円頂丘溶岩に覆われているが,西半は完全に保存され,山腹の傾斜は約27゚,上方にやや凸な地形を示している.山頂部には東に凹な火口縁がわずかに残されている(第24図).火口縁では,放出された軽石質角礫は最大径1mに達する.Tsuya(1929,p.276)によれば,火砕丘の北西麓に露出する細かい層理の発達した火山灰ないし火山礫層中に,径0.5-10mmの火山豆石が沢山見いだされるという.一方,天上山稜北東,櫛ケ峰及びその北では,じょうご山火山稜円頂丘溶岩の塊状表面(明褐色土壌化)を層理の発達した黒雲母流紋岩軽石層が覆っている,Tsuya(1929, p.276-277)はここに比高50m以下,基底径500m,山頂径200mの独立した櫛ケ峰円錐丘があるとし,地形及び内部構造かそれを支持するとした.筆者は,しかしながら,露頭も見られており,この説を積極的には支持できない.多幸湾に臨む,天上山稜南南東面は浸食が進み,部分的に新しい崖錐や植生に覆われてはいるが,天上山火山を構成する各単元がよく露出している.ここでは,海抜30-40mまでは前述の火砕流堆積物であり,それから上,海抜250mぐらいまでは黒雲母流紋岩の軽石質火砕物からなる, 層理の見られる堆積物である.
(図幅第26図)
溶岩円頂丘は天上山の山頂部を占め,南北約2km,東西約1km,おおまかに見れば平面形がひょうたん形の台地状地形を示すが,くびれた所を境にして段差があり,南半部の方が平均して30mほど低い.その原因は不明である.台地の表面には比高30m以下の弧状の山稜が発達しており,これらは粘性の高い流紋岩溶岩が流動する際に生じたしわである.しわの同心円状の配列から考えて,天上山山頂南東部に噴出中心があったと見られるが,佐藤(1957)はこのほかに南西部と北部とにも噴出口があったとし,「微地表形の示すところに従えば,まず北隅のものが形組成された後,これを圧迫して南東部にやや大規模な湧出があり,最後にその西側を破って最小の噴出体が生じている」としている.又,谷口 (1977)は天上山稜「中央部付近にある峯(筆者注:ここでいう弧状の山稜)は天上山稜南側部分をとり囲む形で分布しており,全体としてあたかも北側の地域を南側の地域が切ったような形になっている.従ってこの事から,天上山は双子の溶岩円頂丘であり,まず北側の円頂丘が上昇した後に南側の円頂丘が上昇した」と推定した.山稜の表面には軽石質岩塊が累々と堆積しているが,それらの間の凹所にはその位置で,あるいは周辺の高所で風化分解して生じた砂が堆積しており,千代(せんだい)池など小さい池が見られることがある(第27図).円頂丘溶岩はその厚さ北部で約150m,南部で約200mであり,神津沢の源流, 天上山不動尊と櫛ケ峰との間,多幸湾に面する崖の海抜250m付近などでは,火砕丘を構成する軽石層を赤く焼いている.天上山北西部では,火砕丘の火口縁が約250mだけ円頂丘溶岩に覆われずに残っている.溶岩流前こと火口壁に囲まれた,舟形の凹所の深さは火口縁から約10mである.天上山稜北及び南東面は傾斜35゚,上に凹な斜面を形組成し,溶岩円頂丘の組成長時にその前縁に生じたクランブル角礫岩とその後の非火山性の崩壊によって生じた崖錐とからなっているが,両者を識別するのは難しい.
(図幅第27図)
火砕流と火砕サージ(あるいはイグニンブライト被覆)堆積物,火砕丘を構成する本質物質,及び円頂丘溶岩はすべて良く似た黒雲母流紋岩である.
黒雲母流紋岩(NI 60072406):天上山北東部,不動尊の北方約0.15km,円頂丘溶岩.この岩石は白色,軽石質で,斑晶として乳白色の長石・無色透明の石英のほかに,まれに径3mmに達する黒雲母が目につく.肉眼的に花立火山稜溶岩に極めて良く似ている.鏡下では(第26図),
天上山火山円頂丘溶岩.神津島天上山北東部.
(図幅第VII図版1)
Tsuya(1929,1937)は天上山山頂の北西部に露出するこの円頂丘溶岩の岩石学的記載を行っている. Tsuya(1929,p.282)による無斑晶として,非常にまれではあるが,サニディンも産するという.岩石の主組成分化学分析値は 第1表,No.11に引用されている.分析に供された試料は均一に軽石質なもので,表から分かるように,加水作用の結果,カリが溶脱していることは明らかである.
天上山は島内で最新の火山であって,既に述べたように,14Cによる年代測定結果や出土遺物の推定年代などから見て,大森(1915, p. 11-12)や辻村(1918, p. 80)の説くように,続日本後記の巻第七及び第九に,神格化はされているか,いきいきと記述されている承和5年7月5日(西暦838年7月29日) からの上津島の噴火の産物として間違いないであろう.続日本後紀中の関連記事を第7表に示す.承和 7年9月乙未の項に,「上津島本體,草木繁茂,東南北方巌峻..,人船不到,纔西面有泊宿之濱」とあるのは噴火前の状態を示すもので,「今咸焼崩,与海共成陸地★沙濱,二千許町」は主として当時の谷に沿って山腹を流下した火砕流が海に広がって新しい陸地を造ったことに相当し,「其嶋東北角有新造神院,其中有壟,高五百許丈,基周八百許丈.其形如伏鉢」は壟=冢(つか)であることから,この文章は天上山全体を記述していると見て間違いない.「上津島左右海中焼,炎如野火,十二童子相接取炬,下海 附火.......」は火砕流が海に流入する状況を描写したものである.これらの記事を総合すると,承和5 年7月5日(西暦838年7月29日)から神津島で始まった噴火は火砕流流出を神いなから“鉢を伏せたような”山(火砕丘+溶岩円頂丘)を峰き上げた.山城国平安京では,18日には火山灰が降ったりやんだり し,20日には東方に当って神鼓を打つような音(爆発音)が聞かれた.7月から9月にかけて,本州中部 の広い範囲にわたって降灰が見られたが,農作物などへの被害はなかった承和7年9月(西暦840年10 月)になっても「燎燄未止」と書かれているところを見ると,噴出物はなお高温であったものと思われる.