開聞岳火山の歴史噴火及びそれに伴う災害記録は,874年(貞観16年)と885年(仁和元年)の2回の記録がある.成尾(1992b),成尾ほか(1997)は,指宿市橋牟礼川遺跡におけるこれらのテフラと遺物の被覆関係を詳細に論じ,過去の火山災害の様相を明らかにした.以下に,成尾ほか(1997)の記載に従って,当時の被災状況を述べる.橋牟礼川遺跡では,7世紀後半の須恵器が“青コラ”(Km11c2)降下中に横倒しになった状態で発見されている.さらに “貞観16年テフラ”(Km12a)は,当時の生活面を覆い,農地,道路の埋没,植生の破壊をもたらした.橋牟礼川遺跡では,火山灰の重みで倒壊した家屋跡も発見されている.噴火記録及び堆積物,倒壊家屋の状況から,次のような家屋被災の経過が読み取れる.すなわち,当初の噴出物は主にスコリアで,家屋は立っており降下したスコリアは屋根から落ちて,家屋周辺に堆積し,家屋内には進入しなかった.その後噴火後半に雨が降り始め,泥水が家屋内に浸入した.屋根に積もった堆積物は降雨のために重くなり,ついにはその重みで家屋は東側に倒壊し,埋没した.
最近約1,100年間,噴火は発生しておらず,火山災害は起きていない.しかし,現在でも権現付近,山川町鰻,伏目などで活発な噴気活動がある.また開聞岳火山では,1967年に群発地震が発生したこともあり(気象庁,1996),完全に噴火の可能性がなくなったわけではない.気象庁(2003)は,完新世に噴火した開聞岳を活火山に認定している.