鳥海山 Chokai Volcano


icon 地形の概要

icon 地質の概要

icon 研究史

icon 地質図

icon 噴出物
  icon ステージ I 最初期の噴出物
  icon ステージ I の噴出物
  icon ステージ IIa の噴出物
  icon ステージ IIbの噴出物
  icon ステージ IIcの噴出物
  icon ステージ IId の噴出物
  icon ステージ IIIaの噴出物
  icon ステージ IIIbの噴出物

icon 岩屑なだれ堆積物・崩壊堆積物 及び
    扇状地堆積物


icon 有史時代の活動記録

icon 1974年の噴火

icon 噴火物の化学組成と鉱物組成

icon 火山体付近の活断層

icon 今後の噴火について

icon 引用文献

2015/06/19
このデータ集は5万分の1地質図幅「鳥海山及び吹浦地域の地質」(中野・土谷,1992)から抜粋, 再構成し,さらに,「矢島地域の地質」(大沢ほか,1988)の一部及びその後に公表された研究成果を加えて修正・加筆したものである.
なお,地名については当時の地名をそのまま踏襲しており,その後の市町村合併等による変更を反映していない.

このデータ集を引用する場合,次のように引用してください.
中野 俊(2015)詳細火山データ集:鳥海火山.日本の火山,産総研地質調査総合センター
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/chokaisan/index.html)

有史時代の活動記録

 鳥海火山には有史時代の活動記録がいくつか残されている(大森, 1918, p. 154-159;植木, 1981).古文書記録では西暦573年噴火まで遡るが,10 世紀から15 世紀にかけては古文書記録が存在しない.植木(1981)は鳥海火山の噴火に関する古記録を検討し,そのうち信ぴょう性の高い記録は 9 世紀以降,1974 年の噴火を含めて 12 回とした.その後,植木・堀(2001)によって一部修正され,噴火後に時間を経ずに記述された一次資料が複数ある6回を実在が確実な噴火記録とした.

 資料の再検討を行った植木・堀(2001)は,これまでに知られていない745年,945年,1776年,1847年の古文書記録を見いだした.ただし,これらは時間が経てから書かれたものと推測され,資料としての信憑性は低いと位置づけている.また,915年の噴火は林(1995, p.15-18)により十和田火山起源であるとされたため,鳥海山の噴火記録からは削除された.824〜833年の噴火は830年と特定している.さらに,708-715年については複数の記録を見つけ,実在の可能性があるものとして採り上げたものの自ら疑問を呈している.植木(1981)では1974年噴火を含め12回の噴火記録が信憑性が高いとしていたが,これらのうち871年,1659年,1740年,1800-1804年,1821年,1974年のみを確実な記録と表記している.これらに基づき修正された噴火記録を 表 第7表 にまとめた.なお,林(2002)では871年噴火で溶岩流が流出したと解釈している.

 古文書記録から見る限り,10 世紀から 15 世紀を除き信ぴょう性の低いものも加えた場合,10数年ないし150年の間隔で噴火が起こっていることになる.新山(溶岩ドーム)は 1800-1804年噴火の際の 1801 年に形成されている.それ以前の噴火及び噴出物の詳細は不明であるが,有史時代の噴火は 1800-1804 年噴火を除くとほとんどが現在の新山付近での水蒸気爆発と考えられる.新山の形成以前には瑠璃ノ壺と呼ばれる小火口が存在したらしく(中島, 1906),また不動石と呼ばれた高さ9m程度の溶岩岩尖が存在したらしい(林・相澤,2002). 一般的に,鳥海火山の噴火は弱い噴気・噴煙の出現によって始まり,数日 - 数ヶ月後に爆発的噴火に至るようである.第58図 に 1740 年,1800-1804 年及び 1974 年噴火の火口の位置を示す.その位置は,荒神ヶ岳から新山にかけて東西に延びる割れ目の位置にほぼ相当する.以下,植木(1981)による,具体的な記録の残されている噴火についての活動経過のまとめを再録する(一部字句を書換え).

fig57
第58図 鳥海火山の1740, 1801(1800-1804)及び1974年の噴火の火口分布(植木, 1981)
編み目(推定)と黒色の部分が火口
(図幅第52図)

◎ 871 年(貞観十三年)の噴火は爆発的噴火であったと考えられる.噴火開始後 1ヶ月以内に,山から流れ出る川は,死魚を浮かべた青黒色の強い臭いのする泥水であふれ,流域を汚染し,多くの被害を出した.融雪で生じた泥流の様子を表していると思われる.


◎ 1659 年(万治二年)4 月に始まった噴火は,4,5 年続いた模様である.この間白雪川中・下流域などで稲作に被害が発生した.土石が流下した様子はみられないので,火口付近で湧出した強酸性水が混入したためかも知れない.

◎ 1740 年(元文五年)の噴火の場合,6 月の噴火開始直後はあまり爆発的でなく,噴煙の量も少なかったが,次第に勢いが強くなった模様である.現在の新山の麓から荒神ヶ岳の麓にかけて東西に近い走向を持つ小火口列が生じ,噴火開始約1ヶ月後にその大きさは,長さ約 600 m,幅約160 mであった.矢島旧記に記録されている 1741 年 10 月の噴火は,一連の噴火の末期のものではないかと思われる.この噴火により直接の被害はなかったが,白雪川には硫黄化合物が流れ込み農作物に被害が発生した.子吉川でも同様の被害が出た可能性がある.また,硫化物のため,白雪川河口付近では海藻が死滅し,岩石が白色に変色した.

◎ 1800 年(寛政十二年)12 月に始まったとみられる噴火も,はじめは噴気または弱い噴煙を出すだけであった模様である.山麓から爆発的噴火が確認されたのは,1801 年(享和元年)3 月末である.山麓で降灰が見られたのもこの時が最初と思われる.4 月末の実見記によれば,当時,七高山の麓から荒神ヶ岳の麓にかけて幅約 5 m の火口列が生じ,その中の 7,8 ヶ所から噴煙を放出していた.その後,一時,噴火の勢いは弱くなり,活発な火口は西端の 1 つだけとなったが,7 月に入り再度激しくなり,伏拝岳の東まで火山弾を放出するようになった.噴火は 8 月末に最も激しかったが,この時が新山溶岩ドームの出現に対応するらしい.その後も 1804 年(文化元年)までは噴煙現象が続き,ときどき爆発的噴火が発生した. 1804 年の地震の後,活動がやや活発になったようである.この一連の噴火による噴出物の分布は詳しく記録されていないが,降灰は山麓から仙北地方(秋田県中央部)にかけてみられ,山頂付近での堆積は約 30 cmと思われる.火山岩塊は七高山から伏拝岳の外側斜面にまで分布した.千蛇谷に落下した最大の岩塊は 100 kg 以上とみられる.1801 年 4 月〜 8 月には周辺の鮎川,鳥海川(子吉川の上流部をさす),白雪川,日向川,月光川で火山灰による汚濁や土石の流出がみられた.このため日向川,月光川では多くの魚が死んだ.特に被害の大きかったのは白雪川で,8月中旬少量の降雨の後大洪水となり,流域では田畑,家屋が泥に埋められ,河口には大石,大木が堆積したため舟の航行が不可能となった.

◎ 1821年(文政四年)5月の噴火は,前2回とは異なり,七高山の外側斜面と,新山との間の谷の2か所で発生した.この噴火では,活動が活発になる数日前から噴煙が見られたともいう.活動の継続時間,経過は不明である.

◎ 1834 年(天保五年)7 月に 2,3 度噴火したとの記録が象潟に残されている.唯一の記録であるため信ぴょう性に疑問が残るが,近世の文書であるから採用する.それによれば,噴火後硫化物が白雪川に流入し,魚が死に,稲に被害が出た.(注:この噴火については植木・堀(2001)では確実性を低く評価している)

 871年噴火に対応するテフラ(灰色粘土質火山灰)は,林ほか(2000)によって特定されている.また,林(2001)では古文書記録と地形判読からこの噴火での溶岩流「千蛇谷溶岩」(1801年形成の新山溶岩ドームの7〜8倍の体積)の流出を推定しているが,はたして本当に溶岩流出があったのかどうか,確証はない.

 1800-1804年噴火については,1801年8月に下流域に泥流が発生したことが植木(1981)でも指摘されているが,これは火口溢流型の熱泥流あるいは降雨によって厚い降下火山灰が流出した火山泥流である可能性が考えられている.また,8月の溶岩ドーム形成直前に水蒸気噴火からブルカノ式噴火に移行し,マグマ噴火自体は2-3週間程度であったと考えられており林, 2012,2014;林ほか,2013),溶岩ドームの形成時間は噴火継続時間に対し短い.なお,1804年6月4日には鳥海山麓を震央とするマグニチュード7程度の象潟地震が発生し,同時に噴火が発生したとする記述が古文書等に多くあるが,この地震発生と同時に噴火現象があったことを明確に示すものはないという(土岐田,2001).また,土岐田(2001)は1800-1804年噴火の古文書記録を時系列に沿って採録している.なお,この地震の際に象潟平野の一部が隆起し,海上に浮かんでいた流れ山(象潟岩屑なだれ堆積物)の周囲が干上がって陸化したことがいくつもの古文書で知られている(平野ほか,1979など).

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