歴史時代の噴火と噴出物

火山研究解説集:有珠火山 by 産業技術総合研究所・地質調査総合センター

火山研究解説集:有珠火山
1. まえがき
2. 地形,地質概要,噴火史,火山活動の特徴
おいたち 歴史時代の噴火 噴火の特徴 岩石
3.マグマだまりと地下構造
マグマだまり 地下の構造
4. 噴火と変動
噴火の概要 火山性地震
地下水 噴出物と噴火様式 マグマの破砕 火山ガス
衛星画像
5.リンクお問い合わせ

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  • 歴史時代の噴火の概要(曽屋ほか,2007)


目次

歴史時代の噴火:約300年間に9回

有珠火山の歴史時代の噴火は,1663年以来9回知られており,数十年に一度噴火が起こっていることになります(曽屋ほか,2007).このうち史料に記録が残っている噴火が8回,記録は無いものの堆積物から噴火が推定されるものが1回です(図:歴史時代の噴火の概要)

粘り気の高いマグマ(デイサイト〜流紋岩)が活動しているため,爆発的で危険な噴火が多く,火砕流などによって多数の犠牲者が出ています.また,噴火のたびに溶岩ドーム・潜在ドームが形成され,山の形がどんどん変わっています (図:北西から見た有珠火山)

北西から見た有珠火山.山の本体は,富士山型の小型の成層火山体であり,その山頂部には直径1.8kmの火口がある.この火口原の中や山腹には,歴史時代を通じていくつもの溶岩ドーム(大有珠・小有珠など)・潜在ドーム(明治新山など)が形成されている.

歴史時代の噴火では1663年噴火が圧倒的に大規模であり,以後の噴火は噴出量にして一桁以上小さいものです.

なお,以下の文中の年月日の表示については,旧暦を漢数字で,新暦をアラビア数字で記します.また,1910年以降の噴火については噴火の概要で詳しい推移を述べています.

1663年(寛文三年)噴火:最大の爆発的噴火

7〜8千年におよぶ長い休止期間を経て起こった,歴史時代の活動で最大規模の噴火で,大量の軽石質の火山岩塊・火山礫および火山灰(以下単に「軽石・火山灰」と記す)が広範囲に放出されました.8月13日(新暦,以下同じ)から前兆地震が感じられていましたが,8月16日にまずマグマ水蒸気噴火が始まりました(中村ほか,2005).

翌8月17日に噴火は激しくなり,プリニー式噴火によって噴煙柱がおそらく2万5千m以上の高さまで立ち上がり,体積2.5km3におよぶ流紋岩軽石が放出されました. このときの軽石はUs-b降下軽石と呼ばれ,東に100km以上離れた日高地方でも厚さ10cm以上,有珠山麓では2m以上も積もりました (図:Us-b軽石の積もっている様子) (図:Us-b軽石の等層厚線図). 軽石は良く発泡していて軽く,海上に降った大量の軽石が海面に浮かんで,一帯の海はまるで陸地のように見えたと伝えられています.

1663年軽石(Us-b)が積もっている様子.火口から東に5km.厚さ約1.5m.
Us-b軽石(1663年噴火)の等層厚線図.東に向かって広範囲に大量に降ったことが分かる.有珠火山防災マップ1995年版より転載(原図は大場・近堂(1964)による).

翌日以降もマグマ水蒸気噴火あるいは水蒸気爆発が続き,火山灰の降下や,火砕サージ(希薄な火砕流)の流下がありました(Us-b1〜b6火山灰). 一連の噴火活動は8月末ごろまで続きました.この噴火では,家屋の埋積・焼失により住民5名が犠牲になりました.

なお,小有珠溶岩ドームがこの噴火で形成した可能性がかつて考えられていましたが(古文書の記録からは1769年もしくはそれ以前の噴火としか分からない),岩石学的特徴が1663年噴出物とは全く異なりむしろ1769年噴出物と一致することから,今は1769年噴火形成と考えられています(曽屋ほか,2007).

先明和噴火(17世紀末):知られざる噴火

1663年の次の噴火は1769年であると長い間考えられていましたが,2つの噴火堆積物の間に別の噴火堆積物が存在することが最近発見され,先明和噴火と名付けられました(中川ほか,2005).小規模ながら山頂から軽石や火砕流を噴出したと考えられています(先明和火砕物).史料に記録が残っておらず,噴出物の見られる場所も非常に限られるため,噴火の年月日や規模・推移など詳しいことは分かっていません.

1769年(明和五年)噴火:小有珠誕生

前兆地震(期間不明)の後,1月23日に噴火が始まりました.軽石・火山灰の降下(Us-Va降下火砕物)や火砕流の発生(明和火砕流)があり,南東麓の民家が残らず焼失しました.Us-Va層は山麓で厚さ30〜50cm堆積しています.この噴火で,小有珠溶岩ドームが形成されたと考えられています.

1822年(文政五年)噴火:文政火砕流の大災害

火砕流によって有珠史上最悪の犠牲者を出した噴火です.3月9日に前兆地震が始まり,12日に噴火が始まりました.軽石・火山灰が降下し(Us-IVa降下火砕物),火砕流が発生しました(文政火砕流).特に,23日に発生した火砕流では,南東麓から西麓の広い範囲が焼き払われ,海岸の集落(現在の入江地区付近)が焼失,82名が犠牲になりました(犠牲者103名とする報告もあります).この噴火で,オガリ山潜在ドームが形成されました.なお,オガリ山は後の1977〜78年噴火に伴う地殻変動で南北に二分されたうえ北側が大きく隆起し,ドーム内部が露出しています.

1853年(嘉永六年)噴火:大有珠誕生

4月12日に前兆地震が始まり,22日に噴火が始まりました.軽石・火山灰が降下し(Us-IIIa降下火砕物),火砕流が発生しました(嘉永火砕流あるいは立岩火砕流).この噴火では,大有珠溶岩ドームが形成されました.大有珠の南東側の潜在ドームもこのときの形成と考えられています.大有珠は1853年噴火後も成長を続け,その高さは1889年595m,1905年692m,1909年700m,1911年740m,と測定されています(曽屋ほか,2007).

1910年(明治43年)噴火:山麓噴火で温泉誕生

歴史時代において初めて山麓で噴火が起こった活動です.7月21日(19日としている報告もあるがそれは誤り)に前兆地震が始まり,25日に北麓の金比羅山で噴火が始まりました.この活動では,水蒸気爆発を繰り返しながら,火口があちこちに開き,粘土を多く含む火山灰(Us-IIa降下火砕物)を放出しました.11月までに,北麓にほぼ東西に伸びる延長2.7kmの地帯に沿って,約45個の火口が形成されました.いくつかの火口からは,火山泥流(熱泥流)が直接流出し,これに巻き込まれて1人が犠牲になっています.

8月以降,マグマの地下への貫入に伴う地盤の隆起が,顕著に見られるようになりました.これにより,四十三山(よそみやま;明治新山潜在ドーム)が形成され,明治新山と東丸山の中間の地域も同様に隆起しました.貫入したマグマの熱により地下水が暖められ,これら潜在ドームの周囲では温泉が湧出するようになりました.これが洞爺湖温泉・壮瞥温泉の始まりです(図:洞爺湖温泉・壮瞥温泉の源泉位置)

洞爺湖温泉・壮瞥温泉の源泉位置(東宮ほか,2009).1910年噴火の潜在ドーム周辺に分布する.

→詳しい推移:噴火の概要#1910年噴火の推移

1943〜45年(昭和18〜20年)噴火:昭和新山誕生

明治の噴火と同様に山麓で噴火が起こり,昭和新山を誕生させた活動です.前兆地震の始まりから噴火まで約半年と長かったのが特徴です.

前兆地震が始まったのは1943年12月28日でした.1944年に入っても噴火がなかなか始まらず,やがて東麓で顕著な地盤の隆起が始まりました.マグマが地下の浅いところに貫入してきたためです.噴火が始まったのは同年6月23日でした.水蒸気爆発やマグマ水蒸気噴火を繰り返し,火山灰(Us-Ia降下火砕物)を放出しました.7月11日の爆発では火砕サージが発生しています.11月までに,一帯は比高100mほどの屋根山(潜在ドーム)となりました.

1944年11月,屋根山中央部の火口群の中心から溶岩が出現し,溶岩ドームの成長が始まりました.1945年9月まで成長を続け,頂部は海抜406.9mになりました(曽屋ほか,2007).これが昭和新山溶岩ドームです(図:昭和新山溶岩ドーム) .もともとは海抜120〜150mの畑地でしたので,比高300m近い山が出現したことになります.

昭和新山溶岩ドーム.1943〜45年噴火のときにできた.

→詳しい推移:噴火の概要#1943〜45年噴火の推移

1977〜78年(昭和52〜53年)噴火:温泉街に大量の軽石が降下

久しぶりに山頂からの軽石噴火が起こった活動です.洞爺湖温泉街に居た人びとの上に,大量のデイサイト軽石(Us-1977降下火砕物)が降下しました.

1977年8月6日早朝に有感地震が多発し始め,翌7日には軽石噴火が始まりました.前兆地震の期間は30時間ほどしかありませんでした.軽石噴火を含む一連の爆発的噴火は,8月14日まで続いた後,一旦停止しました(第1期噴火).この間,特に大きな爆発が4回あり,これらはBig-I, -II, -III, -IV と呼ばれています.第1期の噴火で,小有珠の東麓に第1〜3火口,火口原北部に第4火口ができました.この間に噴出した軽石・火山灰の総体積は0.083km3であり,山頂部で1m,山麓で30〜50cmほども積もりました(図:1977〜78年噴火に伴った降灰,土石流,地殻変動による災害発生域)(図:1977〜78年噴火前後における有珠火口原の地形変化)

1977〜78年噴火に伴った降灰,土石流,地殻変動による災害発生域(曽屋ほか,2007;原図は勝井,1980編集)
1977〜78年噴火前後における有珠火口原の地形変化.A:噴火前の地形図.B:1977年10月下旬,1〜4は第1期噴火の火口.C:1978年10月下旬,A〜Nは第2期噴火の火口.(曽屋ほか,2007;原図は国土地理院(1970)および新井田清信による)

同年11月16日,噴火が再開し,翌1978年10月まで続きました(第2期噴火).この間,小規模な水蒸気爆発から中規模なマグマ水蒸気噴火が多発し,山頂の火口原にはA〜N火口が次々と開きました.このうち,J〜M火口は結合して,銀沼火口になりました.第2期の降灰(Us-1978降下火山灰)の体積は,0.0075km3と第1期の10分の1ほどでした.

山頂の火口原では,マグマの上昇に伴い隆起が起こり,有珠新山潜在ドームが形成されました(図:有珠新山潜在ドームと銀沼火口).このときの隆起で,1822年形成のオガリ山の断面が露出するに至りました .

有珠新山潜在ドームと銀沼火口.1977〜78年噴火のときにできた.

→詳しい推移:噴火の概要#1977〜78年噴火の推移

2000年(平成12年)噴火:国道や住宅地に次々と火口が

最新の噴火であり,山麓の国道230号線上や住宅地周辺に次々と火口が開いた活動です.

2000年3月27日に前兆地震が始まり,3月31日に北西麓でマグマ水蒸気噴火が起こりました.その後,小規模な水蒸気爆発が多発し,西山西麓と金比羅山北西麓の2つの地域で約65個の火口を次々と開きました(図:2000年噴火の様子) .一連の活動で放出された降下火砕物(Us-2000降下火砕物)の体積は0.001km3にも満たないものでした.いくつかの火口からは,火山泥流(熱泥流)が直接流出しました(図:2000年噴火の火口と火山泥流の分布,および2000年噴出物の等層厚線)

2000年噴火の様子.あちこちの火口から次々に水蒸気爆発が起こり,地盤も大きく変形しました(撮影:中野 俊).
2000年噴火の火口と火山泥流の分布,および2000年噴出物の等層厚線(曽屋ほか,2007).

噴火に伴い,西山西麓の地下浅部ではマグマの貫入に伴う大きな地殻変動が起こり,同年7月までに一帯は最大80mほど隆起しました.この2000年隆起域も潜在ドームです.

2000年噴火は,火山活動としてはとても小規模なものでした.しかし,居住地域において多数の火口が開いたり地殻変動が起こったりしたため,家屋・道路などに大被害が出ました.幸い,噴火の予知と事前避難がうまく成功し,犠牲者は1人も出ませんでした.

→詳しい推移:噴火の概要#2000年噴火の推移

噴火とその影響

明治の噴火(1910年)によって温泉が出るようになってからは,山のごく近くに多数の人間が集まるようになりました.洞爺湖温泉街は,山頂火口から約2km,山麓の火口群からは数百mの至近距離にあり,活火山のこれほど近くに町がある例は世界でも珍しいと言えるでしょう.このため,噴火を適切に予知して事前避難を行い,被害を最小限に抑えることが非常に重要な山です.また,1910年噴火からは山麓で噴火するケースが増えています.山麓噴火は,人間活動の間近に火口が開くため,噴火の規模が小さくても大きな被害を生じやすく,この点でも注意が必要です.

なお,1910年以降の噴火では様々な地球物理学的観測がされていますが,これについては「 噴火の概要 」の章で詳しく紹介します.

参考文献

勝井義雄(1980)有珠山の噴火とその災害.月刊地球,vol.2, p.414-420.

国土地理院(1970)1:25,000地形図「虻田」.

中川光弘・松本亜希子・田近 淳・広瀬 亘・大津 直(2005)有珠火山の噴火史の再検討:寛文噴火(1663年)と明和噴火(1769年)に挟まれた17世紀末の先明和噴火の発見.火山,vol.50,p.39-52.

中村有吾・松本亜希子・中川光弘(2005)噴出物から推定した有珠山1663年噴火の推移.地学雑誌,vol.114,p.549-560.

大場与志男・近堂祐弘(1964)有珠火山の降下軽石堆積物について.火山,vol.9,p.75-86.

曽屋龍典・勝井義雄・新井田清信・堺幾久子・東宮昭彦(2007)有珠火山地質図(第2版)1:25,000.火山地質図 2,産総研地質調査総合センター,9p.

東宮昭彦・定池祐季・伊藤大介・渡辺真人(2009)有珠火山 −その魅力と噴火の教訓−.地質調査総合センター研究資料集,no.491,産総研地質調査総合センター.