噴火の概要
火山研究解説集:有珠火山 by 産業技術総合研究所・地質調査総合センター
- 有珠火山2000年3月31日噴火の最盛期の様子(川辺禎久撮影)
目次 |
有珠火山における噴火の観測
江戸時代の噴火(1663年噴火〜1853年噴火)の記録は,古文書による記載やスケッチが残るのみです.
近代的な火山観測が行われたのは,1910年の明治噴火からです. 1910年噴火は,大森房吉氏を中心として様々な地球物理学的観測が行われ,日本で初めて本格的な科学観測が行われた噴火となりました.
1943〜45年噴火は,ちょうど太平洋戦争中であったため,観測を大々的に行える状況ではありませんでした.そんな中,地元の郵便局長であった三松正夫氏は,田中館秀三氏・石川俊夫氏・福富孝治氏といった研究者のアドバイスを受けつつ,爆発の様子,火口の形成,ドーム(昭和新山)の成長,といった様々な現象を観察し,貴重な記録を残しました(例えば,三松,1962,1974).
1977〜78年噴火では,火山性地震や地殻変動などの様々な地球物理学的精密観測が行われ,噴火の推移が詳細に明らかにされました.あいにく,有珠火山観測所の本格稼働が噴火に間に合わず,前兆地震期間および噴火開始時の観測が手薄であった点が惜しまれます.
2000年噴火は,初めて万全の体制で望むことのできた噴火でした.前兆地震開始直後から様々な観測データを吟味し,史上初めて噴火開始前に警報(当時の呼称では「緊急火山情報」)を気象庁が発令しました.実際に噴火が起きたのはその2日後で,噴火の予知は見事に成功しました.周辺の住民も事前に避難することができ,噴火による犠牲者をゼロにすることができたのです.
以下,1910年,1943〜45年,1977〜78年,2000年の各噴火の推移について,「有珠火山地質図(第2版)」(曽屋ほか,2007)の記述から抜粋して紹介します.
1910年噴火の推移
7月21日から地震が多発し,次第に激しくなり,やや衰え始めた25日夜,北麓の金比羅山で最初の噴火が起こりました.
噴火は西北西−東南東方向に2列に並ぶ延長 2.7kmの地帯に沿って場所を点々と変えながら断続的に起こり,大小様々な爆裂火口が8月2日までに約15個,同11月までに合計約45個生じました(図:1910年噴火の火口群).噴煙は最大約700mの高さに達し,火口周辺に粘土を多く含む降灰をもたらしました(Us-IIa層).火山岩塊は火口から300m以内に落下しました.これらの噴火は,すべて水蒸気爆発で,新しいマグマに由来する物質は放出されませんでした.
高温の火山泥流(熱泥流)が6個の火口から直接流出し,洞爺湖に最大速度40km/時で流下しました.立入禁止を無視して侵入した1名がその1つに巻き込まれて死亡しました.
8月以降,有珠火山の北麓では地殻変動が続き,火口列の北側に正断層が発達し,その北側は11月10日までに約155m隆起して明治新山(四十三山(よそみやま))となりました.明治新山と東丸山の中間の地域も約75m隆起しました.これらはいずれも潜在ドームです.
噴火活動は翌年8月5日までには停止しました.1910年の活動は,マグマが北麓に貫入して豊富な地下水に接触して,激しい水蒸気爆発を起こし,さらに地表を押し上げて潜在ドームを作ったと考えられています.このマグマの貫入により,活動の直後に洞爺湖畔で温泉が湧出するようになりました.
1943〜45年噴火の推移
1943年末に火山性地震が頻発し始めました.活動は1945年9月まで続き,東麓に昭和新山が誕生しました (図:昭和新山溶岩ドーム)(図:昭和新山が成長する様子を記録した「三松ダイアグラム」).この活動は次の3期に分けられています.
(i) 先噴火期(1943年12月28日〜1944年6月22日)
1943年12月28日,有珠火山一帯で地震が起こり,北麓では1日20回近くの有感地震がありました.1944年に入ると,地震はやや少なくなり,震源は次第に東麓の地下に集中するようになりました.東麓の柳原(やなぎはら)では地盤の隆起が起こり,4月には隆起量が16mに達し,災害が発生しました.4月中旬からは隆起の中心が北方のフカバ(現在の昭和新山東部に相当)に移り,最大50mも隆起しました.地震は激しくなり,6月22日には250回の有感地震が起きました.
(ii) 爆発期(1944年6月23日〜10月31日)
6月23日,フカバ西方の東(ひがし)九万坪(くまんつぼ)(現在の昭和新山中央部に相当)の畑地から水蒸気爆発が始まりました.7月2日から爆発が激しくなり,10月末までに10数回の顕著な爆発が起こりました.特に7月2日,3日の爆発は大きく,東方の苫小牧(とまこまい)や千歳方面まで降灰がありました.また,7月11日の爆発では低温(60〜70℃)の火砕サージが発生し,保安林や小屋を吹き倒しました.
一連の爆発による降下火山灰(Us-Ia層)は火口から1kmで厚さ数cm堆積しました.火山灰は灰色で大部分が既存の岩石の細粉でしたが,後期には新溶岩の細粉が混入してケイ酸量が増加しました(SiO2=57→70%).このような爆発で松本山(現在の昭和新山中央部から北西約500m)の南側に環状に配列した7個の火口が開かれました.地盤の隆起も続き,もとの海抜120〜150mの畑地は,海抜250mほどの屋根山(潜在ドーム)となりました. ここまでの活動は,明治新山の形成とよく似ています.
(iii) 溶岩ドーム生成期(1944年11月上旬〜1945年9月)
11月中旬,屋根山中央部の環状に配列した爆裂火口群の中心から,三角形の新溶岩が現れ始めました.溶岩はユリの根のように分かれて,複雑な動きを示しながら,全体としてやや西側へ突出するようにして上昇を続けました.溶岩は表面に粘土化した凝灰岩起源の赤い天然レンガの皮膜をかぶっていて,溶岩の上昇に伴う無数の擦痕がこの皮膜に刻まれました.一方,屋根山も膨脹を続け, 1945年春から東部が急速に隆起しました.新しい溶岩ドームは,しばらく噴煙に包まれ,夜間は破れた被膜の窓から赤熱した溶岩が点々として見られました.
1945年9月,地震が少なくなり,溶岩ドームの成長も終わり,その頂部は海抜406.9mとなりました.
1977〜78年噴火の推移
1977年8月6日早朝,有感地震が多発し始めました.翌7日午前9時12分,約30時間の前兆地震のあと,山頂からデイサイト質マグマによる軽石噴火が起こりました.
噴煙は1時間後に高さ12kmに達し,まもなく火山の東方域は降灰におそわれました.この噴火は2時間半足らずで一旦休止しましたが,その後も大小の噴火が続発し,14日未明にはマグマの発泡度が悪くなって火山岩塊やパン皮状火山弾などを放出して噴火が終了しました (図:有珠火山1977年噴火第1期の噴火の推移) .この1週間にわたる第1期噴火で,小有珠溶岩ドームの東麓に第1〜3火口,火口原北部に第4火口が開かれました.一連の火砕物の厚さは,山頂部で1m,山麓で30〜50cmで,総体積は8,300万m3に達しました.
第1期噴火のあと,残りのデイサイトマグマは上昇を続け,火山性地震を伴いながら火口原を隆起させ,噴気地帯も拡大しました.大断層が小有珠の北東麓からオガリ山を通り大有珠にかけて発達し,その北東側の火口原中央部は北東に移動しつつ著しい隆起をとげ,新しい潜在ドーム(有珠新山)として成長し始めました (図:有珠新山潜在ドームと銀沼火口).大断層崖の南西側には幅100〜250mの地溝が発達し,小有珠山頂部はこの地溝の成長に伴って沈降を続けました (図:1977〜78年噴火前後における有珠山頂火口原の地形変化).噴火開始後2ヶ月半で,新山は 40〜50mも隆起しました.これに伴い有珠外輪山北東壁も外側へふくらみ,水平移動量は48mに達しました.地殻変動の影響は北麓に及び,建造物が徐々に破壊され始めました.
11月16日,第2期噴火が小規模な水蒸気爆発で始まりました.翌1978年1月以降もこのような活動が続き,7〜9月には中規模のマグマ水蒸気(−マグマ)噴火も多発し,10月27日に噴火は終わりました.この間,大断層の南側にA〜N火口が開かれ,このうちJ〜M火口は結合して銀沼火口となりました.第2期噴火による降灰量は火口原で厚さ約1m,山麓で数cm,総体積は約750万m3に達しました.
地殻変動は第2期噴火後も衰えながら継続し,1980年3月末には有珠新山は約170m高くなって海抜656.8mとなり,外輪山北東部は外側に 160m以上ふくらみ,多数の断層に切られて崩壊し始めました.有珠山北麓一帯では,地盤の圧縮,断層,亀裂が徐々に進行し,家屋などの被害は236戸(うち全壊74戸)に達し,このほか道路,上下水道,温泉泉源,配湯管など各種施設も被害を受けました.全壊建築物の大部分は,直下に生じた断層により徐々に破壊されたものです.新山の隆起は1982年3月まで続きました.
2000年噴火の推移
3月27日より地震活動が活発化し,同29日には噴火発生を予測して緊急火山情報が史上初めて噴火前に発表されました. そして,住民の事前避難を完了し,多くの関係者が見守る中,3月31日13時07分に山体北西部の西山西麓で噴火が始まりました (図:有珠火山2000年3月31日噴火の最盛期の様子) .
3月31日噴火はデイサイト質の本質物を数十%含むマグマ水蒸気噴火(ないし小規模な水蒸気プリニー式噴火)であり,噴煙高度は最大3500m,継続時間は短い休止を挟みつつ6時間以上,噴出物の体積は2.2×105 m3(2.2×108 kg; 堆積物の平均密度は1000 kg/m3を仮定)でした(「地質調査研究報告」および「火山」の有珠火山2000年噴火特集,風早ほか(2002)など).降灰は約80km遠方の札幌でもわずかではあるが認められました.この噴火中には,ごく小規模ながら低温の火砕サージも観測されました.
4月1日には,1910年噴火火口列の延長である金比羅山北西麓にも火口が開き,以後は西山西麓と金比羅山北西麓の2地域(それぞれ西山西麓火口群と金比羅山火口群)で火口を次々と開きながら繰り返し水蒸気爆発が起こりました (図:2000年噴火の火口と火山泥流の分布) .4月以降の活動は,1910年噴火の推移とよく似ています.4月以降の爆発は3月31日噴火に比べるといずれもかなり小さいものの,4月4日18時頃の噴火はやや大きく,噴出量は4.9×104 m3(4.9×107 kg),ニセコ町や真狩(まっかり)村付近まで降灰しました.西山西麓火口群では4月1日から2日,金比羅山火口群では4月2日から10日にかけて,いくつかの火口から熱泥流が発生し,後者は洞爺湖温泉街の一部に被害を与えました.一連の爆発によって4月中旬頃までに65ヶ所の火口が形成されましたが,その後は数ヶ所の固定された火口からの噴煙活動及び小爆発に活動が限定されるようになりました.
4月中旬頃からは,西山西麓を中心とした著しい地盤の隆起と断層群の形成が目立つようになりました.地下浅部へのマグマ貫入に伴う潜在ドーム形成活動であり,7月頃にほぼ収束するまでに一帯は最大約80m隆起しました.
地殻変動がほぼ停止した後も,西山西麓における地熱地帯の形成・拡大や,一部火口の活動がしばらく続きました.爆発による空振は,2001年9月まで観測されました.
参考文献
「地質調査研究報告」有珠火山2000年噴火特集.地調研報,vol.5,nos.4-5.
「火山」2000年有珠山噴火特集.火山,vol.47,nos.3-5.
風早康平・山元孝広・川辺禎久・宝田晋治・吉本充宏・廣瀬 亘・西 祐司・宮城磯治・宇都浩三(2001)有珠火山2000年3月31日および4月7日の噴火画像.地質調査総合センター研究資料集,no.370,産業技術総合研究所地質調査総合センター. [1]
三松正夫(1962)昭和新山生成日記(自費出版).
三松正夫(1974)昭和新山物語 - 火山と私の一生.自然の記録シリーズ,誠文堂新光社,268p.
曽屋龍典・勝井義雄・新井田清信・堺幾久子・東宮昭彦(2007)有珠火山地質図(第2版)1:25,000.火山地質図2,産総研地質調査総合センター,9p.
東宮昭彦(2008)「有珠火山地質図 第2版」改訂のポイント.地質ニュース,no.647,p.61-73.