1907-39(明治40-昭和14)年噴火
1907-39年(明治40年)以降の噴火についてはたくさんの噴火記録が残されています(加藤,1912;震災予防調査会,1918;松本測候所,1920;小平,1932;Yamda,1962;村山,1979;など).これらの記録を基に年ごとの噴火した日数をまとめた物を図1に示します.この一連の噴火は,活動の盛衰はあるもの,ほぼ毎年のように起りました.火山灰は,焼岳東方の松本盆地や西方の高山市に何度も降り,噴火による音や鳴動(空震)も数多く観察されています.この噴火による死者は記録されていませんが,火山周辺山林の枯れ死などの森林被害,桑の葉に火山灰が付着することで養蚕に被害がでました.また,1915,1925年の活動は梓川や蒲田川(高原川水系)まで泥流が流れだし,橋や道に少なからずの被害がでました.
(加藤,1912;震災予防調査会,1918;松本測候所, 1920;小平,1932;Yamada,1962;村山,1979;日本山岳会機関紙「山岳」v.1〜21を基に編集)
焼岳火山は,1907年以前,山頂まで疎林に覆われていましたが,噴火前の1887年頃から焼岳北方の小丘(通称,展望台)の噴気が徐々に増しその周囲の樹木が枯れはじめました(加藤,1912a).最初の噴火は,1907年12月8日に起きましたが,静かに灰を吹き上げるのみで山麓の住民は気づかなかったようです(加藤,1912a).
その後,活動は激しさを増し,山頂付近に複数の火口が形成されました(図2).この一連の噴火で 活動・形成された火口は,正賀池火口(1907-1911年活動),隠居穴(1911-1939年活動),大正池火口(1915-1917年活動),黒谷火口(1919年から1930年頃まで活動)です(火口写真).
この明治末から昭和初期の活動は,大きく二つの活動期,1907-17年と1919-39年のに分けられます.その中でも1909,1911-12,1915,1924-27年に噴火が頻発し活動のピークが認められます(図1).これら活動のピークには,山頂正賀池火口の地形が一変(1909年3月23日),隠居穴火口形成,埼玉県熊谷市まで降灰 (1911年7月12日),東京,千葉まで降灰(1912年2月23日),大正池火口形成,火口から流れ出た泥流(降雨によるものではない)が梓川を堰き止め大正池を形成(1915年6月6日),泥流が足洗谷を流下し橋を大破,群馬県前橋市まで降灰(1925年5月18日),埼玉県大宮,浦和,東京に降灰(1925年6月27日)などの現象がおきました.
噴火は1939年まで続きましたが,1927年1月以降は低調となったようです.1928年には焼岳山頂北1kmの所にある中尾峠に焼岳小屋が開業しましたが,1962年の噴火で大破するまで大きな被害もなく営業を続けています.