| 名称 | 年代 | 様式 噴出物 |
噴出量(立方km(DRE)) |
| 1469年噴火噴出物 | 1469年 | 側噴火 降下スコリア,溶岩流 |
0.002 |
| 1469年12月24日(応仁三年,改元により文明元年十一月十二日)“噴火ス”という記録があるが,具体的な噴火推移は記録されていない.桑木平カルデラ内の西よりの割れ目火口からスコリアと榎沢溶岩流を噴出したらしい.溶岩はカルデラ壁の低所から阿古北方の榎沢に沿って流下した.笠地観音北の環状林道沿いで,村営牧場火山灰層の上位に20cmの風化火山灰を挟んで載っている. | |||
| 1535年噴火噴出物 | 1535年 | 側噴火 降下スコリア,溶岩流 |
0.003 |
| 1535年3月(天文四年二月)“噴火ス”とだけ記されている.ここで1535年噴出物としたものは八丁平カルデラから南東へ延びた噴火割れ目から放出された火山弾,スコリアと溶岩流である.噴火割れ目に沿って,スコリア丘列が形成され,ベンケ根岬溶岩流(一色,1960)が金層,現在の三宅島空港滑走路を経て流れ下り,ベンケ根岬をつくった.これらは村営牧場火山灰及び,坪田中郷の鎌倉時代の積石遺構を覆う.山頂近くの1535年スコリア丘は2000年カルデラに切られ,カルデラ壁にはスコリア丘の火道と供給岩脈が露出している. | |||
| 1595年噴火噴出物 | 1595年 | 側噴火 降下スコリア,溶岩流 |
<0.001 |
| 1595年11月22日(文祿四年十月二十一日)に“噴火ス”とだけ記されている.1595年の噴火は,1535年の噴火割れ目の南に並行して割れ目噴火が起こり,スコリア丘列が形成され,釜方溶岩流が流れ下った.環状林道沿いではこのときの降下スコリアが1535年スコリアを覆う.スコリア丘の一つは,採石場となっている. | |||
| 1643年噴火噴出物 | 1643年 | 側噴火 降下スコリア,溶岩流 |
0.012 |
| 1643年3月31日(寛永二十年二月十二日) 18時に大雨の降る中で地震が起こり,20時には山腹で噴火が始まった.今崎溶岩流(一色,1960)が阿古へ流下,展開してすべての住戸を埋没・焼失させ,さらに海へ1km沖まで広がった.錆ヶ浜,夕景へも別の溶岩が流れ下った.南東麓の坪田にはスコリアが降下して,畑作に被害を及ぼした.阿古,坪田の住民はそれぞれ富賀神社,神着へ逃げて無事であったが,住居,農地を失った阿古住民はその後東山(現在の角屋敷付近)に移住した.鳴動,噴火はおよそ3週間後に沈静化した.おそらく阿古の東にあるコシキスコリア丘が形成されたのもこの噴火であろう. |
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| 1712年噴火噴出物 | 1712年 | 側噴火,マグマ水蒸気爆発 降下スコリア,溶岩流,爆発角礫岩 |
0.001 |
| 1712年2月4日(正徳元年十二月二十八日)18時過ぎから地震,雷鳴・稲光が頻発し,20時前には桑木平で始まった噴火が山麓から見えた.噴火は横へ広がり,龍根の浜では火柱が立った.ほぼ1時間後に火勢は鎮まったが,噴出した溶岩は龍根の浜から200m沖にまで達し,300〜400m北西へ広がった.(東山の)阿古村と坪田村の住民が1週間の避難の後に帰村すると,阿古の人家は泥水に埋没して,牛馬は死んでいた.2週間後には噴煙も収まった.上の記述から,地形図などで確認できる三宅島南西部の3条の割れ目火口列のうち,最も東の割れ目火口列がこの噴火によるものであろう. | |||
| 1763年噴火噴出物 18世紀後半噴火噴出物 |
1763ー1769年 | 山頂噴火,側噴火,マグマ水蒸気爆発 降下スコリア,溶岩流,爆発角礫岩 |
0.066 |
| 1763年8月17日(寶暦十三年七月九日)夜より鳴動が頻繁にあり,雄山の山頂から赤熱の岩片が稲妻のように飛んだ.翌日から鳴動,地震が頻発する中,薄木からも噴火が始まった. 阿古,坪田両村にはスコリアや火山灰が多量に降り,伊豆,神着にも降灰があった.薄木には深い火口が形成され,水が湧いて池となった.この火口が新澪池であると伝えられている.噴火は1769年(明和六年)まで続いた.噴火をもたらした割れ目火口列は3条の割れ目の二番目にあたる.スコリアは南東山麓にかけて厚く降下し,薄木周辺ではこれを覆って爆発角礫岩が堆積した.また,新澪池北方の小火口から薄木へ溶岩が流れ下った.この噴火を期に阿古住民は東山から再び現在の地へ移村したという. 3条の割れ目のうち最も西の割れ目火口列からは釜根マール(南風平)と薄木へ溶岩が流れ下った.この割れ目噴火は1763〜69年の後半に起きた噴火,あるいは古記録から漏れた1769年以降の噴火,のいずれかであろう.岩石の化学組成には1763年の噴出物と差異がみられる. |
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| 1811年噴火噴出物 | 1811年 | 山頂噴火,側噴火 降下スコリア |
<<0.01 |
| 1811年1月27日 (文化八年正月三日) 深夜から地震があった.やがて山頂付近から火柱が立ち昇った.火先はしだいに東北東方向へ向かい,早朝には沈静化した.地震は6日後の2月1日には収まった.北西伊豆地区には地割れが生じた,と記録されている.火の山峠北の東北東山腹の噴火割れ目がこのときの噴火によるものと考えられる.一色(1960)は火の山峠北の東北東山腹の噴火割れ目がこのときの噴火によるものと考えた.火の山峠への道路沿いに1811年噴火噴出物と思われるスコリア層が露出するほか,環状林道沿いに1154年スコリア,村営牧場火山灰層の上位に見られる厚さ10cmほどの降下スコリア層が1811年噴火堆積物と思われるが,露出が限られるため全体の分布は描けなかった. | |||
| 1835年噴火噴出物 | 1835年 | 側噴火 降下火山灰,溶岩流 |
<0.001 |
| 1835年11月10日(天保六年九月二十日)正午前から地震が始まり,強まっていった.やがて西側山腹から噴煙が立ち昇り,赤熱のマグマも見えた.13火口が開口して,溶岩が笠地観音近くまで流れ下った.伊ヶ谷,阿古間にある中山観音で降灰があったと記載されているが野外調査では確認できなかった.噴火は夜半に鎮まったが,噴煙,地震は止まなかった.13日夜の強い地震で崩壊が起こった.地震活動は19日には終息した. | |||
| 1874年噴火噴出物 | 1874年 | 側噴火 降下スコリア,溶岩流 |
0.01 |
| 1874(明治7)年7月3日正午ころ,突如として激しい地震,鳴饗が起こるのと同時に,噴火が北北東山腹の標高560m付近から始まった.火口は割れ目状に標高200m付近まで開口した.南西風によって噴煙が火口東側の土佐〜砲台方面に吹きかかり,粗い火山灰が大量に降下した.スコリアの降下後,溶岩が流れ出した.夕方近くに現在の神着地区の東にあった東郷[ひがしごう]集落を経て,海中にまで流下した.噴火,鳴動は4日後まで,活動は約2週間続いた.この噴火で東郷の30戸余りが埋没し,1名が行方不明となった. | |||
| 1940年噴火噴出物 | 1940年 | 側噴火,山頂噴火 降下スコリア,溶岩流, |
0.015 |
| 1940年7月の噴火は,赤場暁付近などで前年末から水蒸気が上がったり,噴火の一週間程前には地熱の上昇,噴気,地鳴りが気づかれたりするなど明らかな前兆現象を伴った.噴火は7月12日19時30分ころ雄山北東山腹標高200m付近から始まった.噴火割れ目が山腹上方及び下方にのびて,火柱が山頂と赤場暁湾を結んだ線上の標高500m以下に並んだ.噴火の開始と同時に溶岩が旧神着村,旧坪田村界の沢に沿って流下し,約1時間後には赤場暁湾に達した.翌13日18時ころまではほとんど連続的に噴火し,その後間欠的となって急速に弱まった.溶岩の流出,火山弾・スコリア・火山砂の放出とひょうたん山スコリア丘の形成は12日20時ころからの約22時間に起こった. 7月13日の夜半からは,山頂の大穴火口からも噴火が始まった.山腹の活動は14日3時30分の爆発を最後に終息したが,山頂火口からは18日ころまで猛烈に噴煙がでて北東方向に火山灰が降下した.19日から20日にかけて火口は拡大し,21,22日には山麓でも爆音が聞かれ,火山灰の他にスコリアも降下するようになった.24〜26日は山頂噴火の最盛期で,間断なく爆発,鳴響が続き,頻繁に火山弾が投出された.このころ溶岩が山頂火口を埋め,溢れ出たらしい.活発な活動は30日まで続いたが,31日以降は弱まり,爆音は人々の注意をひかなくなっていった.8月3,4日夜には伊豆から空が真っ赤になる火映が見えた.8月3〜6日には伊豆,伊ヶ谷に降灰があり,強い硫黄臭が感じられたが,8月8日には山頂火口の活動もほとんど終息した(津屋,1940,Tsuya,1941). 噴火開始が山腹の居住域であったため,死者11名,傷者20名のほか,全壊・焼失家屋24棟,牛の被害など大きな被害を出した. |
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| 1962年噴火噴出物 | 1962年 | 側噴火 降下スコリア,溶岩流 |
0.006 |
| 1962年8月24日の噴火では噴火開始の約2時間前,20時29分ころから三宅島測候所で微動が感知され,その数と振幅が増していった.噴火は22時20分の数分前に,東北東山腹の旧神着村,旧坪田村界の中腹で始まった.北山麓からみたスケッチ (気象庁,1964)によれば噴火開始は上部火口群の海抜400〜450m付近であり,そこから噴火割れ目が上方及び,中部(中央)火口群,下部(ヨリダイ沢)火口群へ向かい次々に拡大した.23時11分には赤場暁-ヨリダイ沢間の電灯線が断線し,火柱が山腹から海岸まで並んだ.23時39分には山頂側の噴火地点はさらに上方へ移動した.やがて火勢の中心は山腹下部へ移った.翌25日1時ころ上部火口群が活動を終えたのに続き,同日朝には中部火口群も衰えた.下部火口群だけが夜半まで噴石活動を続けたが,26日朝(3〜5時)には沈静化した.火口は1.8kmにわたって並び,その数は20あまりであった.火山弾,火山岩塊は火口から200m以内に堆積し,火山灰は北東山腹に積もった.下部火口群から放出された噴石によって,三七山スコリア丘が形成された.溶岩は三流が認められ,新赤場暁溶岩は赤場暁へ,中部溶岩はひょうたん山の南へ,ヨリダイ沢溶岩は三七山の南へそれぞれ流れ込んだ(松田・森本,1962).噴出物の総量はおよそ2000万トンであった. 表面活動終了後は激しい地震活動に襲われ,8月26日15時48分には三宅島西海岸の深さ40kmを震源とするMJMA(気象庁発表マグニチュード)=5.9の地震(三宅島で震度5)が発生した.噴火のなかった島北西部で有感地震が頻発し,とくに8月30日には,伊豆地区で有感地震の数が2000回以上に達した.このため一部島民が島外に避難した. |
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| 1983年噴火噴出物 | 1983年 | 側噴火,マグマ水蒸気爆発 降下スコリア,溶岩流,爆発角礫岩 |
0.007 |
| 1983年10月3日,噴火開始のおよそ1時間15分前の13時59分ころから三宅島測侯所の地震計に前駆的微震が記録され始め,14時46分に測候所から村役場に火山性地震頻発の情報が伝えられた.関係防災機関が連絡態勢にはいった直後の15時15分ころ,雄山南西山腹二男山標高450m付近で噴火が始まった.噴火割れ目は上方,下方にのびていった.山腹上方の長さ3kmの範囲では初期に溶岩噴泉,晩期には少数の火口からストロンボリ式噴火を行なった.噴出したマグマの大半は溶岩になって谷沿いに流下した.溶岩流のうち最大のものは17時20分ころに都道を横切って阿古に流れ込んだ阿古集落から最終の避難バスが通過した約10分後であった.阿古に残って孤立した80名は漁船によって避難した.この溶岩は340戸を埋没,焼き尽くした.一方,新澪池〜新鼻海岸付近の長さ1.5kmの割れ目火口は海抜100m以下〜海底で開口したため,16時38分以降激しいマグマ水蒸気噴火が起こった.噴出物の大部分が火砕物として坪田方面の住宅,農地,山林に降り積もって被害を与えた.22時33分には新鼻南方4.6km深さ15kmで発生したMJMA=6.2(三宅島測候所で震度5)の地震により,島内の数箇所で崖が崩れた.23時以降,噴火は間欠的になり,翌4日6時前には終了した.地震活動は10月6日の朝には衰え,1962年の噴火後とは全く異なる経過を示した.割れ目は延長4.5km,火口は90個所以上に達した. | |||