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桜島火山地質図(第2版) 解説地質図鳥瞰図
3:歴史時代の噴火

 桜島火山の噴火記録は,和銅元年(西暦708年)が最古であり,その後,多数の記録が残されているものの,4回の大規模噴火を除くと,その記述は断片的で実態のよく分からないものが多い.大規模噴火としたものは天平宝字噴火,文明噴火,安永噴火および大正噴火で( 第1表),山腹からのプリニー式噴火による軽石の噴出( 第5図)で始まり,最終的には溶岩の流出で終わるという推移をたどっている.天平宝字噴火から文明噴火までの700年間は噴火記録がなく,実際に噴火がなかったかドうかも不明であったが,その間の950年頃や1200年頃にも,山頂もしくはその 近傍からの溶岩の流出を伴う噴火のあったことが噴出物(大平溶岩・中岳溶岩及び火砕岩)から確認されている(小林ほか,2009;小林,2010;味喜ほか,2012).特に中岳については層序と岩石学的特徴から新期南岳の側火山とされており(山口,1975),暦年で約800年前の放射性炭素 年代が得られた火山砂(Sz-Nk; 第2図)がその形成に対応 するものと考えられている(小林,2010).以下の歴史噴火 の経緯は,主に小林・溜池(2002)に従っている.

天平宝字噴火(764〜766年)
 天平宝字噴火は南岳の東山麓で起きたもので,まず鍋山火砕丘が形成され,その海側に長崎鼻溶岩が流出した.鍋山火砕丘はマグマ水蒸気噴火に特有な径の大きな火口を持つタフコーンで,噴出物は多面体型の軽石と火山灰で構成されており,急冷による黒曜岩片も多い.この火砕丘は当時の海岸付近に出現したため,形成中〜形成直後の波浪侵食によりその東半分は欠落している.長崎鼻溶岩は,欠けた火砕丘の基部から広がるように分布し,溶岩流出が火砕噴火の後であることを示している.黒神沖の海底には,北東方向にのびる溶岩状の地形が認められるが,海域に流入(Zあるいは海底に貫入)した溶岩地形と推定される.なお鍋山の東に隣接する小火砕丘(蝦ノ塚)も,この時期に形成されたものである.766年には群発地震が発生し,多くの島民が避難したとの記録がある.火砕物と溶岩を合わせ たマグマ噴出量は約0.3km3DRE(岩石換算体積)であり,それ以降の大噴火に比べると小規模である.

文明噴火(1471〜1476年)
 文明噴火は,主に南岳の北東-南西斜面に出現した対の火口列で発生した.北東斜面の火口ではプリニー式噴火と地形から判断して2期に分けられる溶岩の流出が認められ る.一方,南西山麓では山腹火口列および山麓の扇頂部付近から溶岩が流出し,扇頂部の火口から流出した溶岩が海にまで達している.なお南南東斜面でも帯状に山麓にまで達する文明溶岩が発見されたが(高橋ほか,2011),火口位置は不明である.文明噴火は歴史時代のプリニー式噴火と しては最大規模であり,軽石層の層厚がほかよりも大きい ( 第5図 のP3).マグマの総噴出量は約0.8km3DREと推定されている.古文書によると噴火は6年間に複数回発生したが,その信憑性には問題があり,各噴出物の噴火年は特定されていない.噴火災害も甚大であったと記録されているが,具体的な数字はわかっていない.

安永噴火(1779〜1782年)
 安永噴火では,南岳北東-南斜面での陸上噴火と北東沖での海底噴火が起きている.噴火の前には群発地震,井戸水の沸騰や湧水の増加,海水の変色など,顕著な前兆現象 が認められた.本格的なプリニー式噴火は,1779年11月8日に南側山腹と北東山腹で始まった.南側火口では噴火の初期に火砕流が発生した.このプリニー式噴火は翌朝にかけて最盛となり,火口周辺には溶結した降下火砕物や火砕 流堆積物からなるアグルチネートが形成され,その先端は やや流動変形した地形を示している.南側火口からの溶岩 は最高位火口からではなく,中腹の火口(標高500〜 600m)から流出した.なお山麓の小火口列は主要な割れ目火口とは,やや斜交した方向に配列している.一方,北東側の火口では,溶岩はアグルチネートの基底にもぐりこみアグルチネートを変形・破壊し,一部はその基底付近から流出している. 桜島北東の沖合ではその後1年以上にわたり海底噴火が発生し,安永諸島と呼ばれる新しい島々が出現した(小林,2009).海底噴火ではまず巨大軽石を湧出する活動があり,その後次第に潜在ドームの成長による海底の隆起が顕著になり,1年半の間に次々と島が誕生した.現在でも4 島が残っている.猪子島と硫黄島は海底に噴出した安永溶 岩の島であるが,中ノ島と新島は海底が隆起し陸化した島 である.隆起した島の表面には沈積した巨大軽石が点在している.また新島の表面付近には貝化石を含む海成層があり,上昇中に生じた断層地形が明瞭に残されている.安永諸島がほぼ出そろったころから,海底での爆発が顕著になり,津波による被害も生じている.津波の発生は6回記録 されているが,そのうちの3例は爆発をともなっていた. 例えば,1781年4月には,突然の爆発で漁船が吹き飛ばされ,波高10数mの大きな津波が発生した(死者・行方不明 者は約20人). 安永噴火による死者は153名,その大半は島の南-南東 海岸の集落に集中しており,降下軽石や火砕流の分布域と ほぼ一致している.安永噴火の総マグマ噴出量は約2.0km3 DREと推定されるが,海底潜在ドームへの貫入部分を含めると,さらに大きくなる.

大正噴火(1914〜1915年)
 桜島の大正噴火の前後には,南九州一帯で地震・噴火活動等が活発であった.1914年にはいっても霧島地域での地震・火山活動は活発であったが,1月11日の早朝から桜島 において有感地震が始まり,翌12日の午前10時5分頃,西側の山腹に生じた割れ目火口でプリニー式噴火が発生,約 10分後には東側山腹でも噴火が始まった.このプリニー式 噴火は1日半以上続いたが,噴火当日の日没後(18:29),鹿児島市側でM7. 1の地震が発生し,35名の死者がでた.13日になり噴火の勢いは徐々に低下したが,その夜半(20:14),西側火口で全山が真赤に燃えるような激しい火砕流噴火が発生した.溶岩はこの爆発以降に流れ出し,その表面には溶結した軽石堆積物の岩塊をのせている.その後小爆発を繰り返しながら溶岩が流出したが,約2週間後にはほぼ鎮静化した.一方,東側の割れ目火口でも溶岩が流出し,1月30日には溶岩が瀬戸海峡を埋め立て,桜島は大隅半島と陸続きとなった(大正I期溶岩).東側の火口では,2月から新たに溶岩を流出するようになり,その活動 は1年半ほど継続した(大正II期溶岩).特に1915年3〜4 月には溶岩末端崖から二次溶岩が漏れ出し,溶岩三角州を 形成した.大正噴火で噴出したマグマの総量は約1.5km3 DREであり,噴火後には姶良カルデラを中心に同心円状の 沈降が観測された.鹿児島市付近でも30〜50cmほど沈降した. 西側大正溶岩域の火口位置については噴火直後の論文や報告書に記されているが,分布が完全に一致しているわけではない.本地質図では,上田(1914)の記載が最も詳細であるため,これを参考にした.また,東側の火口位置に ついては,Omori(1914)を参考にした.

大正噴火以降の火山活動
 大正噴火以降,しばらく静穏な状態が続いたが,1939年に南岳山頂火口縁の東側斜面で噴火が始まり,小規模な火砕流が発生した( 第6図).この噴出物の化学組成は,桜島火山では最も苦鉄質であった(SiO2:57wt%).その7年後の 1946年にも同じ火口で噴火が始まり,体積0.18km3の昭和溶岩が流出した.大規模な軽石噴火はなかったが,ブルカノ式噴火の噴出物により火砕丘状の地形が形成された.昭和 溶岩は東側大正溶岩がつくる台地付近で2つに分岐し,1 つは東へ,もう1つは南から南西方向に流下し,共に海岸にまで達した. 1955年からは南岳の山頂火口で噴火活動が活発化した. この噴火様式は激しいブルカノ式噴火であり,1985年には年間爆発回数が474回にも達した.爆発の頻度は増減をくり返したが,2000年以降は爆発回数も減り,特に2003年からは急減した.しかし2006年6月4日に昭和火口で突然噴火が再発した.噴火活動は2週間ほどで終了したが,その間に小規模な火砕流も発生した.1年後の2007年5月16日に再び小規模な噴火活動が始まったが,この活動も一ヶ月ほどで終息した.2008年も爆発回数は多くはなかったが,噴火直後に山体斜面で赤熱現象が頻繁に観察されるようになった.2009年になって急激に活動度が高まり,その年の後半からはブルカノ式噴火の頻度が増加し,2010年の年間爆発回数は896回,2011年は996回に達した.このように爆発回数は1980年代の倍以上に増えたが,1回ごとの噴火の 規模は当時と比べるとはるかに小さい. 活動再開前の昭和火口は,水平方向の幅が150mほどの斜面上の窪地であった.しかし2006年の噴火により明瞭な縦穴状の火口が出現し,現在は長径が350mまでに拡大している.南岳の山頂火口(B火口)との間に存在していた旧斜面はなくなり,2つの火口が隣接する形態となっている. 特に2009年以降,昭和火口の外側には噴出物が集積し,平成火砕丘が出現した.


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