西之島火山 Nishinoshima Volcano


概要

研究史

海底地形

陸上地形

西之島の地質 I:西之島溶岩

西之島の地質 II:1973-74年噴出物

1973-74年噴火の概要

1973-74年噴火後の地形変化

全岩化学組成

文献

著者:中野 俊 2013/10/11

このデータ集は5万分の1地質図幅「父島列島」(海野・中野,2007)をもとに一部修正加筆したものである.

このデータ集を引用する場合,次のように引用してください.
中野 俊(2013)詳細火山データ集:西之島火山.日本の火山,産総研地質調査総合センター
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/nishinoshima
/index.html

研究史

 西之島(第1図)は1702年9月15日、スペイン帆船ロザリオ号により発見された。当初はロザリオ島と命名されたが、1801年にはイギリス軍艦ノーチラス号により“失望の島”(Disappointment Island)と呼ばれた。19世紀終わり頃から“西之島”という名称が使われるようになったらしい。この島の地層が火山岩から構成されることは、1837年8月11日のイギリス軍艦ラリィー号およびアメリカ軍艦(1854年)の調査によって報告されている。1911年、日本海軍の測量船「松江(しょうこう)」が西之島周辺の海底地形測量を行い、西之島を北西側火口縁とするような直径約1km、中心部の水深が107mの火口地形の存在が明らかになった。この時の測量結果をもとに海図49号(1:75,000)が作られたが、詳細な測量資料は関東大震災によってすべて消失してしまっている。

 なお、測量船「松江」に関しては、1970年代、当時の乗船研究者は1911年の測量船を「まつえ」と呼んでいた(小坂談)。しかし、明治海軍の資料によれば「松江」の由来は中国大陸の「松花江」であり、「しょうこう」とふりがなされている。

 西之島火山では1973年から翌1974年にかけての噴火が有史時代唯一の噴火記録であり、それ以前には変色水を含め、噴火活動は目撃されていない。発見から1973年までの詳細は佐藤(1974b、1977)や青木・小坂(1974)にまとめられている。なお、佐藤(1977,1984)は1973年以前の火山活動の可能性がある資料をまとめているが、明らかに西之島の噴火活動と認定できるものはない。

fig1
第1図 伊豆小笠原諸島周辺の海底地形(日本列島の地質編集委員会編,2002)

 1973-74年噴火以前の西之島(旧島)の地質については、小笠原返還(1968年)を機に東京都によって行われた調査結果を報告した浅海(1970,1972)で簡単に述べられているのみである。これらには、島の平坦な頂部は高度10 m及び20 mの2段に分かれ、ほぼ水平な3層の溶岩層からなり、下位から集塊質溶岩、板状節理の発達した安山岩、流理構造を持つ多孔質安山岩からなることが記されている。ただし、これらは船上からの遠望観察、及び、上陸に成功した生物調査員が採集した岩石試料に基づく推論にすぎなかった(津山・浅海,1970)。

 西之島火山では1973年から翌1974年にかけて有史以来初めての噴火活動がおこり、海面下での噴火から始まりやがては新島(西之島新島)の誕生に至った。この噴火については、船舶や海上自衛隊などの航空機、さらに報道機関の取材航空機からの情報に加え、頻繁に行われた海上保安庁による監視活動で明らかになった活動経緯や一連の観測状況が詳しくまとめられている(大島,1974;佐藤,1974a;青木・小坂,1974;小坂,1991,2003,2004)。航空測量技術を駆使した海底噴火の観測はわが国における最初の例である。本土から遠く離れた海洋上での噴火ということもあって、海上保安庁のほか、自前の調査船を持つ東海大学や東京水産大学も現地に調査船を派遣し、これらを中心に上空や海上からの観測のみでなく、1974年3月から7月にかけては5回の上陸調査も行われ、噴火中から終了直後にかけて多方面にわたる学術調査・観測が実施されている。

 活動推移の観測結果は小坂丈予(当時、東京工業大学)を中心に逐次報告されるとともに、噴出物が採取されるとその全岩化学分析も行われた(小坂,1973,1974a,1974b,1974c,1975;小坂ほか,1974)。噴出物についてはその後、伊津(1976)が周辺海域でのドレッジ試料を含めた岩石の記載を行い、西之島陸上部については4試料の斑晶モード組成を測定している。また、百瀬(1975)は1973-74年噴出物中に微細な自然鉄の存在を報告した。

 この噴火を機に多くの地球物理学的な探査・観測も行われた。たとえば、久保寺ほか(1974),関岡(1974),関岡・湯原(1976),江原ほか(1977a,1977b)などは表面温度測定や放熱量見積もりを、杉浦・土出(1977)及び土出(1977)は航空撮影によるマルチバンド画像のスペクトル解析を行った。また、飯塚ほか(1975)は地磁気や火山岩の残留磁化方位、帯磁率などの測定及び地震観測を行った。三沢(1974)は西之島周辺海底の海底地形測量と音波探査の解析結果を報告している。大川・横山(1977)は重力測定結果から、地下構造と噴火機構との関係を考察した。

 噴火後の地形変化については、海上保安庁により繰り返し航空測量が行われており、その変遷が詳しくわかっている(たとえば、海上保安庁水路部・文部省総合研究班,1976;海上保安庁水路部,1982,1996)。噴火継続中の1974年3月の地形については、城戸ほか(1975),中村・小池(1975),城戸・小池(1975)により海岸線地形や海底地形について報告されている。噴火後の海食による地形変化などについては茂木ほか(1980)や笹原(2004)などが論じている。それらによると、砂礫の堆積及び隆起による西之島(旧島)と西之島新島(新島)の連結(1974年6月6日初認)後は南岸を中心にした海食が進み陸上部の面積は減少していたが、1980年頃からは北岸湾入部の埋め立てによる拡大が南岸での浸食量を上回っていた。1990年頃までには北岸の湾入部がほぼ埋め立てられてしまい、その後は再び面積減少の傾向が続いている。なお、1992年には海上保安庁により詳細な海底地形測量が行われた(海上保安庁水路部,1993)。

 1974年以降、西之島周辺海域ではほぼ毎年、海水の変色が確認されているが、それ以外の火山活動現象は確認されていない(気象庁編,2005)。

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