1900年7月17日に頂点を迎えることになった一連の噴火活動は,1899年初頭,沼ノ平火口での噴気活発化で開始しました.
1899年8月に2,3の噴気孔が活発化し,同月24日23時頃に沼ノ平中央やや南西よりから大音響とともに爆発,溶融硫黄が流出して,火口に硫黄の小丘(高さ一間余,底径三間余)が形成され,昇華硫黄が火焔として昇騰しました.更に,噴煙も立ちのぼり,降灰は東方約8km(二里)まで観測されました(金原,1899a,震災予防調査会,1917).翌25日に硫黄泥が流出した後,いったん沈静化し,跡には,35x30m(東西三十間,南北十六間)程の楕円形火口が認められました(金原,1899a,震災予防調査会,1917).同年11月11日には,8月と同一場所で噴火し,黒煙を吐出,岩石を飛散させましたが,約3時間で収まりました.翌12日午後7時頃には,前日より規模の大きい(水蒸気)爆発が発生し,沼ノ平内に,岩塊が飛散し,6cm〜60cm厚の火山灰も堆積しました(金原,1899b,震災予防調査会,1917).この時,約10,000m2(三千坪?以上)の凹地が形成されました.この後,1900年7月16日まで,目立った活動の記録はなく,沼ノ平火口内の硫黄精錬所も稼働していたましが,鳴動はやまず,降灰や火山弾の飛来落下も断続していたらしい,とされています.
1900年7月16日夜半に沼尻で,17日には福島でそれぞれ微震が感じられた,という情報があります(井上,1900).17日の気象状況は曇天,西の微風と記録されています.
午前11時頃,沼尻温泉の泉温が上昇し,井戸水が減少,湧水が枯れる前兆現象が確認されました.
16時頃に沼ノ平で最初の小爆発が,火口南縁,船明神山下方の位置で発生しました.火山灰を放出したものの,同火口内,硫黄精錬所では静観していました.
引き続いて18時頃から約30分間に3回の爆発が起こりました.第2回目の噴火により,少年1名は逃走・避難,他の作業員の約半数も避難を開始しました.第3回目の噴火時,避難者は火口西縁の「銚子口」付近まで到達し,噴火状況を傍観していた,と記録されています.
この後まもなく最大規模の爆発が発生しました.この爆発に際して噴石放出,降灰に加えて疾風が発生し,西方に指向したものは硫黄川沿いを流走しました.
これらの噴出物により,避難中の作業員が被災,火口中央部の陥没に伴い,精錬所は壊滅消失しました.さらに,作業員の生活棟もすべて疾風と降灰とで全壊しました(写真).この後,活動はほどなくおさまりました.
この時,長径300m,短径155m,深さ約30mの火口が形成され,この火口の底には18噴気孔が形成され,西方よりで活発な噴気が確認され,中央部の孔では貯水が認められた、とあります.
この噴火において,沼ノ平火口にあった精錬所作業員のうち,先に避難した少年1名を除く,82名が被災しました.内訳は,噴火による即死者64名(うち遺体不明42名)負傷者18名(うち1ヶ月以内の死亡10名)です(鴨志田ほか,2004).