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安達太良火山 Adatara Volcano


安達太良火山のあらまし

有史次代の噴火記録
   1900年噴火
   西麓のラハール堆積物

安達太良火山の生い立ち

安達太良火山のテフラ

安達太良火山の岩石・鉱物
   記載岩石学的特徴
   全岩化学組成の特徴

引用文献

著者:藤縄明彦(茨城大学)
作成:2005/7
最終更新:2009/1/23


このデータ集を引用する場合,次のように
引用してください.
藤縄明彦・工藤 崇・星住英夫(2006)
詳細火山データ集:安達太良火山.日本の
火山,産総研地質調査総合センター
(https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/adatara/
index.html).

安達太良火山の噴火記録 - 1900年噴火 -

 1900年7月17日に頂点を迎えることになった一連の噴火活動は,1899年初頭,沼ノ平火口での噴気活発化で開始しました.

 1899年8月に2,3の噴気孔が活発化し,同月24日23時頃に沼ノ平中央やや南西よりから大音響とともに爆発,溶融硫黄が流出して,火口に硫黄の小丘(高さ一間余,底径三間余)が形成され,昇華硫黄が火焔として昇騰しました.更に,噴煙も立ちのぼり,降灰は東方約8km(二里)まで観測されました(金原,1899a,震災予防調査会,1917).翌25日に硫黄泥が流出した後,いったん沈静化し,跡には,35x30m(東西三十間,南北十六間)程の楕円形火口が認められました(金原,1899a,震災予防調査会,1917).同年11月11日には,8月と同一場所で噴火し,黒煙を吐出,岩石を飛散させましたが,約3時間で収まりました.翌12日午後7時頃には,前日より規模の大きい(水蒸気)爆発が発生し,沼ノ平内に,岩塊が飛散し,6cm〜60cm厚の火山灰も堆積しました(金原,1899b,震災予防調査会,1917).この時,約10,000m2(三千坪?以上)の凹地が形成されました.この後,1900年7月16日まで,目立った活動の記録はなく,沼ノ平火口内の硫黄精錬所も稼働していたましが,鳴動はやまず,降灰や火山弾の飛来落下も断続していたらしい,とされています.

 1900年7月16日夜半に沼尻で,17日には福島でそれぞれ微震が感じられた,という情報があります(井上,1900).17日の気象状況は曇天,西の微風と記録されています.

 午前11時頃,沼尻温泉の泉温が上昇し,井戸水が減少,湧水が枯れる前兆現象が確認されました.

 16時頃に沼ノ平で最初の小爆発が,火口南縁,船明神山下方の位置で発生しました.火山灰を放出したものの,同火口内,硫黄精錬所では静観していました.

 引き続いて18時頃から約30分間に3回の爆発が起こりました.第2回目の噴火により,少年1名は逃走・避難,他の作業員の約半数も避難を開始しました.第3回目の噴火時,避難者は火口西縁の「銚子口」付近まで到達し,噴火状況を傍観していた,と記録されています.

 この後まもなく最大規模の爆発が発生しました.この爆発に際して噴石放出,降灰に加えて疾風が発生し,西方に指向したものは硫黄川沿いを流走しました.

 これらの噴出物により,避難中の作業員が被災,火口中央部の陥没に伴い,精錬所は壊滅消失しました.さらに,作業員の生活棟もすべて疾風と降灰とで全壊しました(写真).この後,活動はほどなくおさまりました.

1900年堆積物
写真 1900年噴火により破壊された生活棟の残骸と爆発による堆積物

 この時,長径300m,短径155m,深さ約30mの火口が形成され,この火口の底には18噴気孔が形成され,西方よりで活発な噴気が確認され,中央部の孔では貯水が認められた、とあります.

 この噴火において,沼ノ平火口にあった精錬所作業員のうち,先に避難した少年1名を除く,82名が被災しました.内訳は,噴火による即死者64名(うち遺体不明42名)負傷者18名(うち1ヶ月以内の死亡10名)です(鴨志田ほか,2004).

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