aistgsj
第四紀火山>活火山>有珠
有珠火山地質図(第1版) 解説地質図鳥瞰図
2:歴史時代の噴火

 有珠火山の歴史時代の噴火は,歴史の短い北海道としては比較的よく記録に残され,また火山周辺に広く分布するテフラ(火山灰などの火山砕屑物層)の層序ともよく照合されている( 第1図).有珠火山は寛文3年(1663年)いらい現在までに7回噴火を起こしている( 図2を拡大する 第1表).いずれの噴火も珪長質マグマによって起こされたもので,軽石・火山灰等を放出し,円頂丘を形成している.ベースサージ(1663年),火砕流(1769,1822,1853年)及び火山泥流(1910年)なども発生している.火砕流は熱雲(狭義)というよりは中間型火砕流に近く,多量の発泡の悪い軽石を混じえ,山麓の四周へ流下している.一般に個々の噴火期は短く(1ヵ月-2年),休止期は長い(約30-100年).

1663年(寛文3年)の噴火

 旧暦7月11日から地震が頻発し,14日に噴火が始まり,15日には地震・噴火がともに激しく,火山雷を伴った.降灰が著しく,南西海上は岸から約5km沖合まで降下物が厚く浮遊して陸のようになったという.噴煙柱は津軽地方からも見え,空振は庄内地方でも感ぜられた.降灰により家屋が埋積・焼失して,住民5名が死亡した.この噴火は7月末まで続いた.

 この活動で2.2km3に及ぶ流紋岩質降下軽石(Us-b層)が東方に厚く堆積し,白老海岸でもその層厚は約1mに達している.軽石噴火に引き続き,火山岩塊・火山灰の放出が繰りかえされ,山麓へベースサージが何回も流下した.これら一連の堆積物(Us-b1-b6層)の層厚は山麓で1-3m,山腹では数10mに達し,大小の岩塊を混えている.記録にはないが,この活動の最後,あるいは後述の1769年の活動の最後に小有珠溶岩円頂丘(フシコヌプリ;古山の意)が形成したと推定されている.


1769年(明和5年)の噴火

 旧暦12月16日噴火が起こり,この噴火の後半に“一面に火降り”,南東麓の民家が残らず焼失した.噴火に先だち,地震が起こったと記録されている.このとき軽石・火山灰からなる降下火砕物(Us-Va層)が山麓で層厚30-50cm堆積している.火災は,降下軽石・火山灰の活動にひき続いて起こった火砕流(明和熱雲)によって発生したもので,この火砕流堆積物は南東側のみならず,南西及び北麓の谷沿いにも分布しており,多量の発泡の悪い軽石を含んでいる.既述のように,小有珠溶岩円頂丘の形成は,明和の噴火の最後に行なわれたかもしれない.


1822年(文政5年)の噴火

 旧暦1月16日に地震が起こり始め,次第に頻度を増したので噴火を警戒していたところ,19日に噴火が始まった.噴火は次第に激しくなり,22日には最初の火砕流が山麓近くまで流下した.噴火はさらに続き,2月1日には前回よりも大きな2回目の火砕流が発生し,南東麓から西麓にかけて森林が一面焼きつくされた.海岸のアブタ(現在の入江)の集落はこの火砕流によって焼失し,50名死亡,53名負傷,馬1437頭死亡という大きな犠牲をだした.これらの火砕流を文政熱雲とよんでいる.噴火は2月9日まで続いた.

 1822年の軽石・火山灰などの降下火砕物(Us-IVa層)は多数のフォールユニットからなり,層厚は西麓で30cm,東麓で1m近くに達する.火砕流堆積物は,噴火記録にみられるように大きく2枚のフローユニットに区分され,南麓一帯に広く分布するが,北麓や東麓でも谷沿いに流下堆積している.火砕流堆積物の厚さは1-3m,部分的には6-7mに及んでいる.また火口原北部の試錐では火砕流堆積物が20-42mの厚さに達している.火砕流堆積物は灰白色-帯紅灰白色の淘汰の悪い火山灰からなり,発泡の悪い軽石を多量に含み,パン皮状火山弾や炭化木片などを混えている.文政の活動の最後に,恐らくオガリ山潜在円頂丘が形成された.但しオガリ山(“生長する山”の意)が火口原の中の小丘として認められるようになったのは,明治年間(1890年ごろ)らしい.オガリ山はその後1977-1978年の活動で大断層により南北に2分され,北側が著しく隆起して,断層崖には円頂丘内部の溶岩・火砕物を露出するに至った.


1853年(嘉永6年)の噴火

 旧暦3月5日から地震・鳴動が起こり始め,次第に激しくなって,15日には山頂部の東側で噴火が始まった.22日には激しい噴火が起こり,27日ごろまで続いた.3月28日,地震はまだ起きていたが,“一面に赤く光る”大有珠溶岩円頂丘(アシリヌプリ,新山の意)が現れ始めた.円頂丘は2年後もいたるところから白煙を放出していた.1853年の降下軽石・火山灰(Us-IIIa層)の層厚は,西麓で30cm,東麓で50cm-1mに及んでいる.東山腹から山麓にかけては,降下軽石・火山灰層の上位に厚さ2-3mの淘汰の悪い軽石・火山灰からなる堆積物が分布している.これは噴火の後期に発生した火砕流(嘉永熱雲又は立岩熱雲)の堆積物で,森林を焼き多数の炭化樹幹を含んでいる.1853年の噴火の最後に生じた大有珠溶岩円頂丘は,その後も成長を続けたらしく,その高さは明治22年595m,同38年692m,同42年700m,同44年740mと測定されている.なお,大有珠の南東側の潜在円頂丘も,1853年の活動に伴って隆起したものと考えられる.


1910年(明治43年)の噴火

 7月19日から地震が多発し,次第に激しくなり,やや衰え始めた25日夜,北麓のコンピラ山で最初の噴火が起こり,ついで西北西-東南東方向の延長2.7kmの地帯に沿って大小合計45個の爆裂火口を生じた.噴煙は最大約700mの高さに達し,火口周辺に降灰をもたらした(US-IIa層).火山岩塊は火口から300m以内に落下した.これらの噴火は,すべて水蒸気爆発で,新しいマグマに由来する物質は放出されなかった.小規模な火山泥流が直接6個の火口から流出し,洞爺湖に最大速度40km/時で流下し,1名がそのために死亡した.噴火は8月5日には終わったが,有珠火山の北麓では地殻変動が続き,火口列の北側に正断層が発達し,その北側は11月10日までに約155m隆起して明治新山(四十三山)となった.隆起の平均速度は約1.5m/日であった.明治新山と東丸山の中問の地域も約75m隆起した.これらはいずれも潜在円頂丘である.1910年の活動は,マグマが北麓に貫入して豊富な地下水に接触して,激しい水蒸気爆発を起こし,さらに地表を押し上げて潜在円頂丘を作ったと考えられている.このマグマの貫入により,活動の直後に洞爺湖畔で温泉が湧出するようになった.


1943-1945年(昭和18-20年)の噴火

 明治新山が形成してから33年の休止期のあと,有珠火山では1943年末に再び火山性地震が頻発し始めた.活動は1945年9月まで続き,東麓に昭和新山が誕生した.この活動はつぎの3期に分けられる.


先噴火期(1943年12月28日-1944年6月22日):1943年12月28日,有珠火山一帯で地震が起こり,北麓では1日20回近くの有感地震があった.1944年にはいると,地震はやや少なくなり,震源は次第に東麓の地下に集中するようになった.東麓の柳原では地盤の隆起が起こり,4月には隆起量が16mに達し,災害が発生した.4月中旬からは隆起の中心が北方のフカバ部落に移り,最大50mも隆起した.地震は激しくなり,6月22日には250回の有感地震が起きた.


爆発期(1944年6月23日-10月31日):6月23日,フカバ西方の東九万坪の畑地から水蒸気爆発が始まった.7月2日から爆発が激しくなり,1O月末までに10数回の顕著な爆発が起こった.特に7月2日,3日の爆発は大きく,東方の苫小牧・千歳方面まで降灰があった.降下火山灰(US-Ia層)は火口から1kmで厚さ数cm堆積した.火山灰は灰色で大部分が既存の岩石の細粉であったが,後期には新溶岩の細粉が混入してケイ酸量が増加した(SiO2=57→70%).このような爆発で松本山の南側に環状に配列した7個の火口が開かれた.地盤の隆起も続き,もとの海抜120-150mの畑地は,海抜250mほどの屋根山(潜在円頂丘)となった.ここまでの活動は,明治新山の形成とよく似ている.


溶岩円頂丘生成期(1944年11月上旬-1945年9月):11月中旬,屋根山中央部の環状に配列した爆裂火口群の中心から,三角形の新溶岩が現われ始めた.溶岩はユリの根のように分かれて,複雑な動きをしめしながら,全体としてやや西側へ突出するようにして上昇を続けた.溶岩は表面に粘土化した凝灰岩起源の赤い天然レンガの皮膜をかぶっていて,溶岩の上昇に伴う無数の擦痕がこの皮膜に刻まれた.一方,屋根山も膨脹を続け,1945年春から東部が急速に隆起した.新しい溶岩円頂丘は,しばらく噴煙につつまれ,夜間は破れた被膜の窓から赤熱した溶岩が点々としてみられた.1945年9月,地震が少なくなり,溶岩円頂丘の成長も終わり,その頂部は海抜406.9mとなった(図2を拡大する 第2図).


1977-1978(昭和52-53年)の噴火

 昭和新山が形成してから32年目にあたる1977年8月6日早朝,有珠火山では再び有感地震が多発し始めた.翌7日午前9時12分,約30時間の前兆地震のあと,山頂からデイサイト質マグマによる軽石噴火が起こった.噴煙は1時間後に高さ12kmに達し,まもなく火山の東方域は降灰におそわれた.この噴火は2時間半足らずで一旦休止したが,その後も大小の噴火が続発し,14日未明にはマグマの発泡度が悪くなって火山岩塊・パン皮状火山弾などを放出して噴火が終了した( 第3図).この1週間にわたる第1期噴火で,小有珠円頂丘の東麓に第1-3火口,火口原北部に第4火口が開かれた.軽石・火山灰は,当初東方に降灰したが,8日午後から9日早朝までは低気圧の接近で雨模様となり,下層の風向がかわった.このため,火山近くでは北西側に降灰し,遠方では北から北東方向に降灰した.この結果,個々の噴火に対応する降灰域は複雑なパターンを示し(図4を拡大する 第4図),これら降下火砕堆積物の積算等厚線は北西-南東に伸び,山頂部で1m,山麓で30-50cmで,総噴出量は8,300万m3に達した( 第5図).降灰は山麓の住宅を破壊し(全壊8,半壊4棟),広範囲にわたって収穫直前の農作物や森林に被害を与えた.特に降雨中は,セメントミルク状の泥滴が降り,樹木に粘着して枝や幹を折った.火山灰中には少量の粘土鉱物が含まれていたため,このような折損が著しく,また乾燥後はセメントのように固化して樹木・農作物を枯死させた.また,有珠火山の地表は厚い降下軽石・火山灰堆積物におおわれたため,少量の降雨でも泥流(土石流)が発生し易くなり,このため8-9月には西麓で泥流災害が起きた.

 第1期噴火のあと,残りのデイサイト質マグマは上昇を続け,火山性地震を伴いながら火口原を隆起させ,噴気地帯も拡大した.大断層が小有珠の北東麓からオガリ山を通り大有珠にかけて発達し,その北東側の火口原中央部は北東に移動しつつ著しい隆起をとげ,新しい潜在円頂丘(有珠新山)として成長しはじめた( 第6図).大断層崖の南西側には巾100-250mの地溝が発達し,小有珠山頂部はこの地溝の成長に伴って沈降を続けた.噴火開始後2ヵ月半で,新山は40-50mも隆起した.これに伴い有珠外輪山北東壁も外側へふくらみ,水平移動量は48mに達した.地殻変動の影響は北麓に及び,建造物が徐々に破壊し始めた.

 11月16日,第2期噴火が小規模な水蒸気爆発で始まった.翌1978年1月以降もこのような活動が続き,7-9月には中規模のマグマ水蒸気(-マグマ)噴火も多発し,10月27日に噴火は終わった.この間,大断層の南側にA-N火口が開かれ,このうちJ-M火口は結合して銀沼火口となった.第2期噴火による降灰量は火口原で厚さ約1m,山麓で数cm,総噴出量は約750万m3に達した.この量は第1期噴出量の10分の1にすぎなかったが,降灰は山麓の住民の生活をおびやかし,森林・農作物に被害を与えた.

 第2期噴火で細粒火山灰が地表を被覆したため,雨水の浸透性がさらに悪くなった.10月16日と24日の降雨で,有珠山麓の全域で大きな泥流が発生し,家屋の全半壊・浸水などの災害が起こり,死者2名,行方不明1名の犠牲者をだした( 第7図).この泥流を誘発した降雨は,僅か20-30mm/日にすぎなかった.噴火開始いらい,有珠火山では泥流の警戒策がとられ,治山・砂防工事が進められ,泥流を洞爺湖に導く5本の排水溝も作られた.また,空中から牧草の種子を撒き,人工的な植生回復も行われた.

 地殻変動は第2期噴火後も衰えながら継続し,1980年3月末には有珠新山は約170m高くなって海抜656.8mとなり,外輪山北東部は外側に160m以上もふくらみ,多数の断層に切られて崩壊し始めた( 第7図 第8図).有珠山北麓一帯では,地盤の圧縮・断層・亀裂が徐々に進行し,家屋などの被害は236戸(うち全壊74戸)に達し,このほか道路,上下水道,温泉泉源,配湯管など各種の施設も被害をうけた.全壊建築物の大部分は,その直下に生じた断層により徐々に破壊されたものである( 第7図).


 前をよむ 前を読む 次をよむ 次を読む