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蔵王火山地質図 解説地質図鳥瞰図
5:歴史時代の噴火

 蔵王火山は,確かなもののみ取り上げても,数多くの噴火記録が残されている( 第1表).記録に残る最古の噴火記録は,吾妻鑑(あづまかがみ)に記録された 1230 年の噴火であり,東側の広い範囲に火山礫が降ったことが記されているが,詳細は不明である.この後,17 世紀まで降灰を伴うような噴火記録は存在しないが,14 世紀には活発な噴煙活動があったことが紀行文(都のつと)に記されている.そのため,噴火記録のない 14〜16 世紀間に噴火がまったく無かったとは考え難い.江戸時代の 17 世紀以降,19 世紀末までは数多くの噴火記録が残る.いずれも現在の御釜が噴火口と推定される火山活動である.また,最新の噴火記録は 1894〜97 年の噴火であるが,それ以降の 1918〜28 年,1939〜43 年には,御釜湖底からの火山ガスの噴出で御釜が白濁し,湖面が硫黄で覆われた.いずれも湖水面から火山ガスの湧出や水蒸気が上がるのが観察さ れたが,湖表面の水温は最大でも 25 °C程度であった.1940 年 4 月には,御釜東方において噴気が増大し,新噴気孔が形成された.

5.1 1894〜 97(明治二十七〜三十)年噴火
 より詳しい記録の残る 1894〜97 年噴火(明治噴火)について,巨智部(1896),大森(1918a)や当時の官報などの噴火記録,Miura et al. (2012)などの地質学検討を基に詳しく述べる.この一連の活動は,1895 年 2 月と 9 月に活動の高まりがあり,噴火と共に,降灰や御釜の湖水の溢流による洪水の発生,火口近傍では,火砕サージの発生や巨大な噴石の降下もあった.

 1867(慶応三)年 10 月 21 日の噴火後しばらくは活動の記録は無く,明治噴火の活動開始直前には御釜からの噴気・噴煙活動などは無かっ た.1894 年 2,3 月頃から御釜より噴煙が認められるようになり,7 月頃から噴煙の量が増した.最初の噴火は,1894 年 7 月 3 日に発生し,西側山麓に雨と共に少量の降灰をもたらした.7 月下旬から 10 月までは御釜から湯の噴出があったが,10 月末には低調となった.1 回目の活動の高まりは,1895 年 2 月 15 日午前 9 時頃,19 日午前 8 時 30 分頃の噴火であり,いずれの噴火も噴煙柱が立ち上がった直後に,東側の濁川を流下するラハールが発生し,下流域で洪水となった.洪水は,白石川,阿武隈川まで達した.ラハールは,噴火によって御釜の湖水が溢れだしたためと考えられる.噴火は,19 日の方が大きく,15 日と比較して噴煙柱は数十倍,洪水による水位上昇(15 日は濁川で 3 m,白石川,阿武隈川で 120 cm 程度の増水)は数倍程度大きかった.降灰は,15 日,19 日共に御釜から東北東約 8.5 km に位置する青根温泉で認められ( 第6図),特に 19 日には直径 1〜2 cm 大の凝集火山灰が降った.その後,3 月 20 日には鳴動(おそらく噴火),3 月 22 日には噴火とほぼ同時にラハールの発生,8 月 22 日は山形市街まで降灰などの記録が残る.噴出物の解析から,8 月 22 日の噴火では馬の背カルデラ内の御釜周辺に小規模の火砕サージが流れ下ったと考えられている(Miura et al., 2012).2 回目の活動の高まりは,1895 年 9 月 27 日午前 6 時頃に発生した噴火で,降灰が東側の太平洋岸(名取市閖上(ゆりあげ))まで達し( 第6図),濁川を 9 m も増水させるラハールが発生した.9 月 27 日午後 6 時半頃,28 日午後 6 時頃にも少量の降灰があったようだが,その後,活動は落ち着いたようである.刈田郡教育会(1928)には,1896 年 3 月 8 日,9 月 1 日に噴火の記録が記されているが,これ以外に記録がなく確かなことがわからない.1897 年 1 月 14 日の鳴動・噴煙の記録を最後に,噴火活動を示す記録は無い.

 これら一連の噴火の噴出物は様々な程度に変質した粘土から火山岩塊サイズのテフラで構成されるため,水蒸気噴火の産物と考えられてきた(Miura et al. 2012).しかし,草木を焦がすほどの高温の噴出物が放出されている(巨智部, 1896)こと,塑性変形した形状を示す未変質の火山弾が噴出物中から見つかる(伴, 2013)ことから,これら一連の噴火はマグマ水蒸気噴火であったと考えられる.一連の噴火による噴出物総量は,6.4×108 kg であり,そのほとんどの 6.2×108 kg は 1895 年9月27〜28日噴火の噴出物であると考えられている(Miura et al. 2012).つまり,一連の噴火中の最大の噴火でも VEI:1 程度である.

5.2 歴史時代の噴火の継続期間・周期
 比較的詳しい記録が残る江戸時代以降の噴火の特徴は,以下のようにまとめられる.歴史時代の噴火活動は,山麓に降灰を伴う小規模な噴火が数ヶ月から数年程度続き,噴火に伴い火口湖が溢れ出すことなどで特徴付けられる( 第1表).また,それらの噴火活動は,大局的には 100 年程度の周期で活動期と静穏期を繰り返している.すなわち 17 世紀(1620〜25, 1641, 1668(〜70?), 1694 年噴火)と 18 世紀末から 19 世 紀(1794〜96, 1809, 1831〜33, 1867, 1894〜97 年噴火)の2つの活動期と,その間の 18 世紀と 20 世紀の静穏期である.さらに活動期中は,数日〜数年の活動と間の休止期に分けられ,消長を繰り返してきた傾向が読み取れる.

5.3 歴史時代の噴火の規模・様式
 個々の噴火は,1230 年,1624 年の噴火を除いて,山麓部に火山礫以上の大きさの降下火砕物が降った記録は無く,特に詳しい記録の残る江戸時代以降の噴火では,広い範囲への降灰は認められない.そのため,個々の噴火の規模はそれほど大きく無かったようである.しかし,山頂部の神社の焼失や噴出物により草木が焦げたなどの記録が残ること(1694,1885 年),最新活動期である活動期 VI の噴出部はスコリア質の火山礫〜火山砂主体であり火口近傍では火山弾なども認められる(伴, 2013)ことから,高温の本質物が関与した噴火であったことは確実である.また,1694 年噴火以降,1809,1831〜32,1867,1894 〜 97 年の噴火では,噴火に伴い山頂付近から酸性水が溢流することで発生したラハールにより,山麓の河川で洪水,田畑や人間に被害を及ぼした記録が残る.これらの記録から推察するに,江戸時代以降の噴火様式は,火口湖内で小規模なマグマ水蒸気爆発が発生し,それに伴い火口湖が溢流してラハール(洪水)を発生したことで特徴付けられる(及川・伴, 2013).なお,御釜の呼称は 1694 年噴火から使われており,その前の 1625 年の活動では,現在の御釜の周辺は「灰塚森」と呼称されていた.つまり,現在の御釜と呼ばれる火口湖は,1625 年噴火直前には存在していなかった.1694 年以降,噴火に伴い山頂火口付近を起源とするラハールの発生が記録されていることから,御釜と呼ばれる現在の火口湖の形成は,1625〜94 年の間以降であると考えられる.


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