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有珠火山地質図(第2版) 解説地質図鳥瞰図
3:歴史時代の噴火

歴史時代の噴火の特徴

 有珠火山の歴史時代の噴火は,歴史の短い北海道としては比較的よく記録に残され,また火山周辺に広く分布するテフラ(火山灰などの火山砕屑物層)の層序ともよく照合されている( 第1図).有珠火山は1663年(寛文三年)以来現在までに記録に残るだけで8回噴火を起こしている( 第1表).いずれの噴火も珪長質マグマによって起こされたもので,軽石,火山灰等を放出し,ドームを形成している.火砕サージ(1663年),火砕流(1769,1822,1853年)の発生や,火口からの火山泥流の流出(1910,2000年)も起きている.火砕流は多量の発泡の悪い軽石を混じえ,山麓の四周へ流下している.一般に個々の噴火期は短く(1ヶ月~2年),休止期は長い(約30~50年).また,その活動は粘性の高いデイサイト質マグマによってひき起こされており,地震の多発と著しい地殻変動を伴う特徴がある.

 8回の噴火のうち,1663,1769,1822,1853,1977~78年のものは山頂噴火であり,いずれも噴煙高度が10km以上に達するような爆発的な軽石噴火(プリニー式ないしサブプリニー式噴火)を噴火初期に起こした.一方,1910,1943~45,2000年のものは北西ないし北東山麓からの山腹噴火であり,そのような軽石噴火は起こさず,水蒸気噴火あるいはマグマ水蒸気噴火で始まっている.これらは以下で述べる噴火の推移から,1663年タイプ,1769/1822/1853/1977年タイプ,1910/2000年タイプ,1943年タイプの4種に分類できる.


1663年(寛文三年)の噴火

 8月13日(旧暦七月十一日)から地震が頻発し,16日に噴火が始まり,17日には地震,噴火がともに激しく,火山雷を伴った.降灰が著しく,南西海上は岸から約 5km沖合まで降下物が厚く浮遊して陸のようになったという.噴煙柱は津軽地方からも見え,空振は庄内地方でも感ぜられた.降灰により家屋が埋積,焼失して,住民5名が死亡した.この噴火は8月末頃まで続いた.

 この活動で2.5km3に及ぶ流紋岩質降下軽石(Us-b層)が東方に厚く堆積し,白老(しらおい)海岸でもその層厚は約1mに達している.軽石噴火に引き続き,火山岩塊・火山灰の放出が繰り返され,山麓へ火砕サージが何回も流下した.これら一連の堆積物(Us-b1―b6層)の層厚は山麓で1~3m,山腹では数10mに達し,大小の岩塊を混じえている.記録には無いが,従来,この活動の最後あるいは後述の1769年の活動の最後に小有珠溶岩ドーム(フシコヌプリ,古山の意)が形成したと推定されていた.しかし,岩石学的特徴が1769年の火砕物と良く一致する一方1663年のものとは全く異なることから,小有珠溶岩ドームは1769年噴出物の可能性が高い.


先明和噴火

 記録には無いが,17世紀末頃にも小規模な噴火があったらしい.近年の北西山麓でのトレンチ調査で,降下軽石・火山灰及び火砕サージ堆積物からなる層厚17cmの噴出物の存在が報告された(中川ほか, 2005).本噴火について詳しいことは分かっていない.


1769年(明和五年)の噴火

 1月23日(旧暦十二月十六日)噴火が起こり,この噴火の後半に“一面に火降り”,南東麓の民家が残らず焼失した.噴火に先立ち,地震が起こったと記録されている.このとき軽石,火山灰からなる降下火砕物(Us-Va層)が山麓で層厚30-50cm堆積している.火災は,軽石や火山灰の降下にひき続いて起こった火砕流(明和火砕流)によって発生したもので,この火砕流堆積物は南東側のみならず,南西及び北麓の谷沿いにも分布しており,多量の発泡の悪い軽石を含んでいる.既述のように,小有珠溶岩ドームの形成は,明和の噴火の最後に行われた可能性が高い.従って,第2版では小有珠溶岩ドームを1769年(明和五年)噴火の産物とした.


1822年(文政五年)の噴火

 3月9日(旧暦閏一月十六日)に地震が起こり始め,次第に頻度を増したので噴火を警戒していたところ,12日に噴火が始まった.噴火は次第に激しくなり,15日頃にはおそらく最初の火砕流が山麓近くまで流下した.噴火はさらに続き,23日には最大の火砕流が発生し,南東麓から西麓にかけて森林が一面焼きつくされた.海岸のアブタ(現在の入江)の集落はこの火砕流によって焼失し,82名死亡,馬1437頭死亡という大きな犠牲を出した.この火砕流を文政火砕流と呼ぶ.噴火は少なくとも4ヶ月以上続いた.

 1822年の軽石・火山灰などの降下火砕物(Us-IVa層)は多数のフォールユニットからなり,層厚は西麓で30cm,東麓で1m近くに達する.火砕流堆積物は,噴火記録にみられるように大きく2枚のフローユニットに区分され,南麓一帯に広く分布するが,北麓や東麓でも谷沿いに流下堆積している.火砕流堆積物の厚さは1~3m,部分的には6~7mに及んでいる.また火口原北部の試錐では火砕流堆積物が20~42mの厚さに達している.火砕流堆積物は灰白色-帯紅灰白色の淘汰の悪い火山灰からなり,発泡の悪い軽石を多量に含み,パン皮状火山弾や炭化木片などを混じえている.文政の活動の最後に,恐らくオガリ山潜在ドームが形成された.但しオガリ山(“生長する山”の意)が火口原の中の小丘として認められるようになったのは,明治年間(1890年ごろ)らしい.オガリ山はその後1977~78年の活動で大断層により南北に2分され,北側が著しく隆起して,断層崖にはドーム内部の溶岩,火砕物を露出するに至った.


1853年(嘉永六年)の噴火

 4月12日(旧暦三月五日)から地震や鳴動が起こり始め,次第に激しくなって,22日には山頂部の東側で噴火が始まった.29日には激しい噴火が起こり,5月4日ごろまで続いた.5月5日,地震はまだ起きていたが,“一面に赤く光る”大有珠溶岩ドーム(アシリヌプリ,新山の意)が現れ始めた.ドームは2年後もいたるところから白煙を放出していた.1853年の降下軽石,火山灰(Us-IIIa層)の層厚は,西麓で30cm,東麓で50~100cmに及んでいる.東山腹から山麓にかけては,降下軽石,火山灰層の上位に厚さ2~3mの淘汰の悪い軽石および火山灰からなる堆積物が分布している.これは噴火の後期に発生した火砕流(嘉永火砕流又は立岩火砕流)の堆積物で,森林を焼き多数の炭化樹幹を含んでいる.1853年の噴火の最後に生じた大有珠溶岩ドームは,その後も成長を続けたらしく,その高さは1889年595m,1905年692m,1909年700m,1911年740mと測定されている.なお,大有珠の南東側の潜在ドームも, 1853年の活動に伴って隆起したものと考えられる.


1910年(明治43年)の噴火

 7月21日から地震が多発し,次第に激しくなり,やや衰え始めた25日夜,北麓の金比羅山で最初の噴火が起こった.噴火は西北西-東南東方向に2列に並ぶ延長 2.7kmの地帯に沿って場所を点々と変えながら断続的に起こり,大小様々な爆裂火口が8月2日までに約15個,同11月までに合計約45個生じた.噴煙は最大約700mの高さに達し,火口周辺に粘土を多く含む降灰をもたらした(Us-IIa層).火山岩塊は火口から300m以内に落下した.これらの噴火は,すべて水蒸気爆発で,新しいマグマに由来する物質は放出されなかった.高温の火山泥流(熱泥流)が6個の火口から直接流出し,洞爺湖に最大速度40km/時で流下し,1名がそのために死亡した.8月以降,有珠火山の北麓では地殻変動が続き,火口列の北側に正断層が発達し,その北側は11月10日までに約155m隆起して明治新山(四十三山(よそみやま))となった.明治新山と東丸山の中間の地域も約75m隆起した.これらはいずれも潜在ドームである.噴火活動は翌年8月5日までには停止した.1910年の活動は,マグマが北麓に貫入して豊富な地下水に接触して,激しい水蒸気爆発を起こし,さらに地表を押し上げて潜在ドームを作ったと考えられている.このマグマの貫入により,活動の直後に洞爺湖畔で温泉が湧出するようになった.


1943~45年(昭和18~20年)の噴火

 1943年末に火山性地震が頻発し始めた.活動は1945年9月まで続き,東麓に昭和新山が誕生した.この活動はつぎの3期に分けられる.

(i) 先噴火期(1943年12月28日~1944年6月22日):1943年12月28日,有珠火山一帯で地震が起こり,北麓では1日20回近くの有感地震があった.1944年に入ると,地震はやや少なくなり,震源は次第に東麓の地下に集中するようになった.東麓の柳原(やなぎはら)では地盤の隆起が起こり,4月には隆起量が16mに達し,災害が発生した.4月中旬からは隆起の中心が北方のフカバ(現在の昭和新山東部に相当)に移り,最大50mも隆起した.地震は激しくなり,6月 22日には250回の有感地震が起きた.

(ii) 爆発期(1944年6月23日~10月31日):6月23日,フカバ西方の東(ひがし)九万坪(くまんつぼ)(現在の昭和新山中央部に相当)の畑地から水蒸気爆発が始まった.7月2日から爆発が激しくなり,10月末までに10数回の顕著な爆発が起こった.特に7月2日,3日の爆発は大きく,東方の苫小牧(とまこまい)・千歳方面まで降灰があった.また,7月11日の爆発では低温(60~70°C)の火砕サージが発生し,保安林や小屋を吹き倒した.一連の爆発による降下火山灰(Us-Ia層)は火口から1kmで厚さ数cm堆積した.火山灰は灰色で大部分が既存の岩石の細粉であったが,後期には新溶岩の細粉が混入してケイ酸量が増加した(SiO2=57→70%).このような爆発で松本山の南側に環状に配列した7個の火口が開かれた.地盤の隆起も続き,もとの海抜120~150mの畑地は,海抜250mほどの屋根山(潜在ドーム)となった.ここまでの活動は,明治新山の形成とよく似ている.

(iii) 溶岩ドーム生成期(1944年11月上旬~1945年9月):11月中旬,屋根山中央部の環状に配列した爆裂火口群の中心から,三角形の新溶岩が現れ始めた.溶岩はユリの根のように分かれて,複雑な動きを示しながら,全体としてやや西側へ突出するようにして上昇を続けた.溶岩は表面に粘土化した凝灰岩起源の赤い天然レンガの皮膜をかぶっていて,溶岩の上昇に伴う無数の擦痕がこの皮膜に刻まれた.一方,屋根山も膨脹を続け, 1945年春から東部が急速に隆起した.新しい溶岩ドームは,しばらく噴煙に包まれ,夜間は破れた被膜の窓から赤熱した溶岩が点々として見られた. 1945年9月,地震が少なくなり,溶岩ドームの成長も終わり,その頂部は海抜406.9mとなった( 第2図).


1977~78年(昭和52~53年)の噴火

 1977年8月6日早朝,有感地震が多発し始めた.翌7日午前9時12分,約30時間の前兆地震のあと,山頂からデイサイト質マグマによる軽石噴火が起こった.噴煙は1時間後に高さ12kmに達し,まもなく火山の東方域は降灰におそわれた.この噴火は2時間半足らずで一旦休止したが,その後も大小の噴火が続発し,14日未明にはマグマの発泡度が悪くなって火山岩塊やパン皮状火山弾などを放出して噴火が終了した( 第3図).この1週間にわたる第1期噴火で,小有珠ドームの東麓に第1~3火口,火口原北部に第4火口が開かれた.軽石や火山灰は,当初東方に降灰したが,8日午後から9日早朝までは低気圧の接近で雨模様となり,下層の風向が変わった.このため,火山近くでは北西側に降灰し,遠方では北から北東方向に降灰した.この結果,個々の噴火に対応する降灰域は複雑なパターンを示し( 第4図),これら降下火砕堆積物の積算等厚線は北西-南東に伸び,山頂部で1m,山麓で30~50cmで,総噴出量は8,300万m3に達した( 第5図).

 降灰は山麓の住宅を破壊し(全壊8,半壊4棟),広範囲にわたって収穫直前の農作物や森林に被害を与えた.特に降雨中は,セメントミルク状の泥滴が降り,樹木に粘着して枝や幹を折った.火山灰中には少量の粘土鉱物が含まれていたため,このような折損が著しく,また乾燥後はセメントのように固化して樹木,農作物を枯死させた.また,有珠火山の地表は厚い降下軽石,火山灰堆積物におおわれたため,少量の降雨でも土石流が発生しやすくなり,このため 8~9月には西麓で土石流災害が起きた.

 第1期噴火のあと,残りのデイサイトマグマは上昇を続け,火山性地震を伴いながら火口原を隆起させ,噴気地帯も拡大した.大断層が小有珠の北東麓からオガリ山を通り大有珠にかけて発達し,その北東側の火口原中央部は北東に移動しつつ著しい隆起をとげ,新しい潜在ドーム(有珠新山)として成長し始めた( 第6図).大断層崖の南西側には幅100~250mの地溝が発達し,小有珠山頂部はこの地溝の成長に伴って沈降を続けた.噴火開始後2ヶ月半で,新山は 40~50mも隆起した.これに伴い有珠外輪山北東壁も外側へふくらみ,水平移動量は48mに達した.地殻変動の影響は北麓に及び,建造物が徐々に破壊され始めた.

 11月16日,第2期噴火が小規模な水蒸気爆発で始まった.翌1978年1月以降もこのような活動が続き,7~9月には中規模のマグマ水蒸気(-マグマ)噴火も多発し,10月27日に噴火は終わった.この間,大断層の南側にA-N火口が開かれ,このうちJ-M火口は結合して銀沼火口となった.第2期噴火による降灰量は火口原で厚さ約1m,山麓で数cm,総噴出量は約750万m3に達した.この量は第1期噴出量の10分の1にすぎなかったが,降灰は山麓の住民の生活をおびやかし,森林や農作物に被害を与えた.

 第2期噴火で細粒火山灰が地表を被覆したため,雨水の浸透性がさらに悪くなった.10月16日と24日の降雨で,有珠山麓の全域で大きな土石流が発生し,家屋の全半壊・浸水などの災害が起こり,死者2名,行方不明1名の犠牲者を出した( 第5図).この土石流を誘発した降雨は,僅か20~30mm/日に過ぎなかった.噴火開始以来,有珠火山では土石流の警戒策がとられ,治山砂防工事が進められ,土石流を洞爺湖に導く5本の排水溝も作られた.また,空中から牧草の種子を撒き,人工的な植生回復も行われた.

 地殻変動は第2期噴火後も衰えながら継続し,1980年3月末には有珠新山は約170m高くなって海抜656.8mとなり,外輪山北東部は外側に 160m以上ふくらみ,多数の断層に切られて崩壊し始めた( 第5図 第7図).有珠山北麓一帯では,地盤の圧縮,断層,亀裂が徐々に進行し,家屋などの被害は236戸(うち全壊74戸)に達し,このほか道路,上下水道,温泉泉源,配湯管など各種施設も被害を受けた.全壊建築物の大部分は,直下に生じた断層により徐々に破壊されたものである(第5図を拡大する 第5図).新山の隆起は1982年3月まで続いた.


2000年(平成12年)の噴火

 3月27日より地震活動が活発化し,同29日には噴火発生を予測して緊急火山情報が史上初めて噴火前に発表された.そして,住民の事前避難を完了し,多くの関係者が見守る中,3月31日13時07分に山体北西部の西山西麓で噴火が始まった.3月31日噴火はデイサイト質の本質物を数十%含むマグマ水蒸気噴火(ないし小規模な水蒸気プリニー式噴火)であり,噴煙高度は最大3500m,継続時間は短い休止を挟みつつ6時間以上,噴出量は2.2×108 kgであった.降灰は約80km遠方の札幌でもわずかではあるが認められた.この噴火中には,ごく小規模ながら低温の火砕サージも観測された.

 翌4月1日には,1910年噴火火口列の延長である金比羅山北西麓にも火口が開き,以後は西山西麓と金比羅山北西麓の2地域(それぞれ西山西麓火口群と金比羅山火口群)で火口を次々と開きながら繰り返し水蒸気爆発が起こった(第5図を拡大する 第11図).4月以降の活動は,1910年噴火の推移とよく似ている.4月以降の爆発は3月31日噴火に比べるといずれもかなり小さいが,4月4日18時頃の噴火はやや大きく,噴出量は4.9×107 kg,ニセコ町や真狩(まっかり)村付近まで降灰した.西山西麓火口群では4月1日から2日,金比羅山火口群では4月2日から10日にかけて,いくつかの火口から熱泥流が発生し,後者は洞爺湖温泉街の一部に被害を与えた.一連の爆発によって4月中旬頃までに65ヶ所の火口が形成されたが,その後は数ヶ所の固定された火口からの噴煙活動及び小爆発に活動が限定されるようになった.

 4月中旬頃からは,西山西麓を中心とした著しい地盤の隆起と断層群の形成が目立つようになった.地下浅部へのマグマ貫入に伴う潜在ドーム形成活動であり,7月頃にほぼ収束するまでに一帯は最大約80m隆起した.ただし傾斜地のためドーム地形は不明瞭である.

 地殻変動がほぼ停止した後も,西山西麓における地熱地帯の形成・拡大や,一部火口の活動がしばらく続いた.爆発による最後の空振が観測されたのは翌年9月である.

 2000年噴火の火口域は,これまでの有珠山の火口域に対して北西にやや外れた場所であり,一部居住地にも掛かっていた.このため,噴火は比較的小規模であったにも関わらず,国道230号線を始めとする道路や上下水道などが寸断され,家屋の被害が850戸(うち全壊119戸)に達するなど,大きな被害が出た.被害の多くは地殻変動,泥流,投出岩塊による.しかし,事前避難が功を奏したため死傷者は1人も出なかった.


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