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御嶽火山地質図 解説地質図鳥瞰図
4:記録に残る噴火

 活動記録が残る噴火は,1979(〜80)年の噴火が最初で,他に1991,2007,2014年に噴火した.いずれも噴出物に本質物が認められない水蒸気噴火で,1979,2014年噴火がVEI=2,1991,2007年噴火がVEI=0の規模である.ここでは,地震が原因となった1984年の山体崩壊についても解説する.


4.1 1979(〜80)年噴火
 地獄谷の源頭付近から八丁たるみ方向に伸びる北西〜南東方向に,複数の火口を新たに開口させ10月28日に噴火,火山灰を約150 km離れた群馬県前橋市まで降らせた( 第5図).1980年4月後半にも降灰を伴う噴火があった.噴出物の総量は約1.0〜1.3×109 kgである.噴火開j始時に山頂に登山者が数十人いたにもかかわらず,この噴火による死者・行方不明者はいなかった.

 噴火の推移を木曽御岳山噴火活動及び災害の総合的調査研究班(1980),気象庁(1980a, b),長野県(1981),長野県(2020)を基にまとめると次のようになる.

 噴火前10月27日23時頃から,山頂直下の地震活動が活発化,10月28日の5時頃に噴火が開始し,5時30分頃に剣ヶ峰付近とその東側の鹿ノ瀬温泉などで最初に降灰が確認された.8時ごろから噴火の勢いが増し火山礫サイズ以上の投出岩塊が山頂付近で降り始め,9時には噴煙高度が火口上約1,000 m,14時すぎに最大の約2,000 mとなり,火口から径1 mほどの噴石が放出されているのが確認された.さらに地獄谷内の火口から極小規模の火砕流が発生し,火口から地獄谷沿いに500 mほど流れ下った.28日夕方から噴煙の勢いは弱くなり,28日夜にはさらに勢いが弱まり,29日朝には著しく弱くなり白煙を上げるだけとなった.噴出物は,粘土質の火山灰が主で,火口近傍にはそれに火山礫,火山岩塊などが混じる.また,噴火の最中から火口から泥混じりの熱水が噴出する火口噴出型泥流(及川ほか,2018)が発生し,地獄谷の下流の河川水の濁りが10月28日7時頃から観察された.このような泥まじりの熱水の噴出は1980年末頃まで続いた.

 10月29日以降の活動は次のようにまとめられる.1980年の春の雪溶けまでは,噴気によって火口付近の雪面が黄色ないし灰色に変色する状態が続いたが,噴煙高度はおおむね300 m以下と噴火時よりは低かった.1980年1月8日,29日には噴煙活動がやや活発になり,それぞれ火口から500 m,1,000 mの高さの噴煙をあげた.1980年4月18日には白色の噴煙を高さ500 mまであげ,田の原まで極微量の降灰を伴う噴火が発生した.4月25日も噴煙がやや多くなり山頂付近の雪面が火山灰により灰色に変色する噴火が発生した.しかし,1981年以降は噴気の勢いも弱くなった.

4.2 1984年の山体崩壊(御嶽崩れ)
 1984年9月14日には御嶽山の南東麓でMj6.8の長野県西部地震が発生し,それが原因で御嶽山の南東側の斜面が崩壊し,死者・行方不明者29名の被害が生じた.特に伝上川上流の尾根,奥行き1,320 m,最大幅420 m,比高655 mの部分が大きく崩れて岩屑なだれが発生した.崩壊は8時48分頃に発生し,岩屑なだれは伝上川,濁川沿いの12 kmの距離,比高1.2 kmを平均速度71〜95 km/hで流れ下り,王滝川との合流点付近の氷ヶ瀬で8時57分頃に停止した(三村ほか,1988).この崩壊による堆積物の分布や地形変化についてはEndo et al.(1989)や長岡(1986)が詳しい.崩壊量は3.4×107 m3,堆積量は3.6×107 m3.この崩壊は「御嶽(岳)崩れ」ないし「伝上川崩れ」とよばれている.本地質図内は岩屑なだれの流下域であり,岩屑なだれ堆積物は厚く堆積していない.地質図には,山田・小林(1988)を参考に岩屑なだれ堆積物の分布域を示し,あわせて長岡(1986)に従い崩壊壁と流下域を示している.

4.3 1991年噴火
 1991年4月末から山頂直下に震源をもつ地震が増加し,5月に入ると火山性微動が発生した後,正確な噴火日は特定できていないが,5月13日午後から16日夜までの間に極小規模な噴火が発生した(木股ほか,1991).1979年火口の1つであるSー7火口( 第5図)から噴火し,粘土質の火山灰がその火口から東に200×50 mの範囲に降下しているのが5月30日の調査で確認された.総噴出量は多くても数十トン程度と見積もられている(木股ほか,1991).

4.4 2007年噴火
 2007年3月後半に噴火が発生した.2006年12月から御嶽山の地下の膨張を示すわずかな変化がGNSSで観測され,2007年2月中旬頃から鈍化傾向となり,4月以降にほぼ停止した.そのような中,2006年12月20日頃から山頂直下を震源とする地震活動が活発化し,翌年1月16日には163回の地震を観測,火山性微動も1月下旬頃からまとまって発生するようになり,地震・微動とも消長を繰り返しながら4月まで活発な状況が続いた.3月16日には,それ以前はしばらく観測されていなかった山頂付近からの噴気が確認されるようになった.これら一連の現象は山頂下3 kmにマグマが貫入したことで引き起こされたとされている(Nakamichi et al., 2009).2007年5月29日の気象庁による現地調査で,1979年噴火S - 7 火口から北東200×50 mの範囲内に粘土質の火山灰が確認され( 第5図),その噴火の時期は,噴気活動が活発化した3月と推定された(気象庁地震火山部,2007).火山灰の分布状況から1991年噴火と同規模の噴火であると推定される.

4.5 2014年噴火
 9月27日11時52分頃に噴火が発生し,山頂付近にいた登山者が巻き込まれ63名の死者・行方不明者を出した.噴出物量は0.6〜1.4×109 kgである.噴火の推移を,Oikawa et al.(2016)及び長野県(2020)に基づきまとめると次のようになる.

 9月9日頃から山頂直下の火山性地震が増え,日に50回を超えるようになり,噴火の直前27日11時42分頃から火山性微動や傾斜変動などが認められ,噴火へ至った.しかし,体感できるような前兆はなかった.噴火は,1979年火口列の南側に新たに火口列を形成しながら発生し,その火口列は,東から西に,奥ノ院下,地獄谷内,一ノ池西側の斜面の大きく三つの領域に分けられる( 第5図).地獄谷内につくられた複数の火口の活動が最も活発で大きく,そのうち最大のものは谷の側壁を大きくえぐるようにつくられた.

 噴火は大きく3つのフェーズにわけられ,フェーズ1(火砕流発生期;11時52分〜12時15分頃),フェーズ2(泥雨まじりの降灰期;12時15分〜16時00分頃)フェーズ3(火口噴出型泥流発生期;16時00分以降)にわけられる.噴火は開始期が一番大きく,その後,勢いをだんだん減じて終了したと考えられる.フェーズ1は,比較的低温で本質物を含まない火砕流の発生と,多量の投出岩塊の放出で特徴づけられる.火砕流は標高3,500 mまで上昇した噴煙が崩壊して,四方に広がった( 第5図).火砕流は11時52分〜12時00分ごろかけて複数回発生し,火口の南側の地獄谷沿いには火口から約2.5 kmまで到達した.火砕流は水滴などの液体の水を含まない乾燥した流れで,温度は概ね30〜100 °C程度であるが部分的に100 °Cを超えた可能性があり,流下速度は時速約30〜70 kmと見積もられた.火砕流の発生とほぼ同時に多数の投出岩塊が火口から約1 kmの間に多量に落下し,それが主な原因で多数の死者・負傷者が生じた.フェーズ2は,泥雨まじりの降下火山灰の降下で特徴づけられる.噴煙高度は12時20分頃に最大高度(火口上7.8 km)に達し,それとほぼ同じ時間の12時15分前後から火山灰混じりの泥雨が降り始めた.噴煙は,その後低くなったが,15時頃まで火口上4 km程度の高度を保った.フェーズ3の16時00分頃から地獄谷内の火口から火口噴出型泥流が発生し,火口から5 km離れた地点まで顕著な泥質な堆積物を残し,さらに下流の牧尾ダムまで泥水が達した.この火口からの泥水のあふれ出しは長期化し,2016年7月頃まで続いた.なお噴煙は,泥水のあふれ出しにやや遅れた17時40分以降に著しく低くなり,火口上2 km以下の高度となった.山頂部における降灰は,27日夕方にはほとんど停止した.



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