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三宅島火山地質図 解説地質図鳥瞰図
3:三宅島火山の噴火活動史
 三宅島火山が数万年前に活動をはじめる前から存在する基盤岩は地表では露出していない.しかし,岩塊や礫として火砕岩中に含まれる変質した安山岩凝灰角礫岩,軽石凝灰岩,輝石石英閃緑ひん岩-石英閃緑岩などは基盤岩に由来するものと考えられている.火山としての活動は,カルデラの形成や休止期をもとに5つの活動期,すなわち先大船戸[せんおおふなと]期,大船戸期,坪田期,雄山期,新澪期に区分される.活動期と主な噴出物の層序関係,放射性炭素年代を 第1図に示した.なお,この年代値はいずれも暦年補正をしていない値である.
 有史時代の活動は,『三宅島祥異』,『三宅島御神火之記(下)』に西暦1085 年以降,1874年まで11回の噴火が記録されていた(大森,1915).1595年までの5回は,噴火年と“噴火ス”とだけ記されて,具体的な記述はない.しかし1643年噴火以降の記録は,噴火の前兆,推移,噴火後の地震活動などが詳細に記述されている.
3.1 先大船戸期
 桑木平カルデラ形成までの活動期を先大船戸期とよぶ.西-北西山腹を構成し,主に玄武岩質の火砕岩,溶岩からなる.阿古北西の海食崖にはマグマ水蒸気噴火による爆発角礫岩が厚く露出している.伊ヶ谷港の背後の崖に姶良-丹沢火山灰(AT)が見出されている.桑木平カルデラはおそらく1万年前にはすでに存在していたと思われるが,いつどのようにしてできたか,まだよくわかっていない.
3.2 大船戸期
 後桑木平カルデラ火山が成長した時期が大船戸期にあたる.澪が平[みおがたいら]溶岩・スコリア丘など,主として玄武岩質溶岩・火砕岩からなる.約7,500~8,000年前に島の北西でやや規模の大きなマグマ水蒸気噴火(大船戸爆発角礫岩の噴出・堆積)が起こった後,4,000年前まで活動は不活発であった.この時期の風化火山灰層中に鬼界-アカホヤ火山灰(K-Ah)が含まれている.
3.3 坪田期
 この期の代表的な噴出物は,約4,000年~2,500年前に南山腹にひろがり坪田から龍根[たつね]までの海食崖に露出する溶岩と,約4,000年前に北西山麓で起こった伊ヶ谷豆石噴火(約0.1km3;マグマの体積に換算した値.以下同様)による溶岩・火山豆石である.安山岩質マグマが噴出した点で前後の活動期と明瞭に区別できる.
3.4 雄山期
 約2500年前に最近1万年間で最大規模(約0.4km3)の八丁平噴火が起こった結果,八丁平カルデラができたらしい.その中に後八丁平カルデラ火山である雄山が成長した.

八丁平噴火:山体中心部からスコリア噴火が始まり,細粒スコリアを噴出するマグマ水蒸気噴火に移行した.島内全域に5mから数10cmの厚さで降下・堆積した(八丁平スコリア層).ついで,東山腹へ泥流が流れ下った(八丁平泥流).さらに噴火割れ目が南へ向かって開口して古澪マール(大路池),山澪[やまみお]マール及びその南の海底でマグマ水蒸気噴火が起こり,大量の爆発角礫が投出された.同時に山体の中心部で生産された細粒火山灰が火山豆石となって全島に降下・堆積した(八丁平火山豆石層).これらは地質学的に短時間内に起こった.八丁平カルデラ形成後の雄山期には少なくとも15輪廻の噴火が認められる.細粒の降下火山灰や,急冷・破砕して発泡の悪い降下スコリアが多いことから,マグマ水蒸気噴火が起こりやすい環境-おそらく,カルデラ内に水が存在する-にしばらくの間おかれたらしい.

9世紀の噴火:9世紀半ばに八丁平カルデラ内で始まった噴火では0.08km3程のマグマが噴出した.一部の溶岩は八丁平カルデラ縁から溢れて古澪,水溜りまで,東へは金曽[かなそ]を経て海岸近くまで流れ下った.続いてカルデラの中心からスコリアが噴出し,さらに噴火割れ目が東山腹から三池にのびてマグマ水蒸気噴火が起こった.三池浜はこの火口跡であり,火口近傍では爆発角礫が10m以上の厚さで,また島内全域に火山灰が堆積した.

11世紀の噴火:1085年(応徳二年)の噴火は桑木平カルデラ内の南西で起こったらしい.阿古東方の林道に沿って流下した南戸[なんと]溶岩(NTL)がこの噴火に由来すると考えられる.

12世紀の噴火:1154年11月(久寿元年十月)の噴火は火の山峠付近から椎取[しいとり]神社付近に伸びる噴火割れ目に対応するらしい.割れ目噴火に由来する火山弾,降下スコリア層を覆って,中央火口を給源とする黒色の村営牧場火山灰層(SBA)が全島的に分布する.1154年噴火の後,300年あまりの休止期があった.

3.5 新澪期
 噴火活動が1469年に再開したあと1983年まで,12回の噴火が記録されている.新澪期は山腹噴火を主とする活動期であり,すべての噴火で山腹割れ目噴火が起こった.1940年と,おそらく1535年,1763年,1811年には山頂火口からも噴火した.雄山期末期の噴出物の化学組成とは不連続に,より玄武岩質なものへと変化した.

15世紀の噴火:1469年12月24日(応仁三年,改元により文明元年十一月十二日) 桑木平カルデラの内側の西よりの割れ目火口から噴火し,カルデラ壁の低所から阿古北方の榎沢沿いに榎沢溶岩 (EZL)が流下した.

16世紀の噴火:16世紀には1535年3月(天文四年二月)と1595年11月22日(文禄四年十月二十一日)の2回噴火の記録がある.いずれの噴火でも南東山腹に噴火割れ目が延びてスコリア丘列をつくり,1535年にはベンケ根岬溶岩流(BKL)が,1595年には釜方溶岩(KKL)が流れ下った.

17世紀の噴火:1643年の以降の噴火記録からは,詳しい推移を読み取ることができる.3月31日(寛永二十年二月十二日)18時に大雨の降る中で地震が起こり,20時には山腹で噴火が始まった.溶岩流が阿古へ流下し展開してすべての住戸を埋没・焼失させ,さらに海へ1km沖まで広がった.錆ヶ浜[さびがはま],夕景[ゆうけ]へも別の溶岩が流れ下った.南東麓の坪田にはスコリアが降下して,畑作に被害を及ぼした.阿古,坪田の住民はそれぞれ富賀神社,神着へ逃げて無事であったが,住居,農地を失った阿古住民は,東山(現在の角屋敷付近)に移村した.鳴動,噴火はおよそ3週間後に沈静化した.

18世紀の南南西の割れ目噴火:三宅島の南南西には18世紀の噴火に対応する3条の噴火割れ目が識別できる.

 1712年2月4日(正徳元年十二月二十八日)18時過ぎから地震,雷鳴・稲光が頻発し,20時前には桑木平で始まった噴火が山麓から見えた.噴火は横へ広がり,龍根の浜付近では火柱が立った.ほぼ1時間後に火勢は鎮まったが,噴出した溶岩は龍根の浜から200m沖にまで達し,300~400m北西へ広がった.(東山の)阿古村と坪田村の住民が1週間の避難の後に帰村すると,阿古の人家は泥水に埋没して,牛馬は死んでいた.2週間後には噴煙も収まった.上の記述から3条のうち東の割れ目火口列がこの噴火によるものであろう.

 1763年8月17日(宝暦十三年七月九日)夜より鳴動が頻繁にあり,雄山の山頂から赤熱の岩片が稲妻のように飛んだ.翌日から鳴動,地震が頻発する中,薄木からも噴火が始まった.阿古,坪田両村にはスコリアや火山灰が多量に降り,伊豆,神着にも降灰があった.薄木には深い火口が形成され,水が湧いて池となった.この火口が新澪池であると伝えられている.噴火は1769年(明和六年)まで続いた.噴火をもたらした割れ目火口列は3条の割れ目の中央にあたる.スコリアは南東山麓にかけて厚く降下した.薄木周辺ではこれを覆って爆発角礫岩が堆積した.また,新澪池北方の小火口からは薄木へ溶岩が流れ下った.この噴火を期に阿古住民は東山から再び現在の地へ移村したという.

 3条の割れ目のうち西の割れ目火口列からは釜根マール(南風平[いなさぶら])と薄木へ溶岩が流れ下った.この割れ目噴火は1763~69年の後半に起きた噴火,あるいは古記録から漏れた1769年以降の噴火,のいずれかであろう.岩石の化学組成には1763年の噴出物と差異がみられる.

19世紀の噴火:19世紀には1811年,1835年,1874年の3回の噴火記録が残されている.

 1811年1月27日(文化八年正月三日)深夜から地震があった.やがて山頂付近から火柱が立ち昇った.火先はしだいに東北東方向へ向かい,早朝には沈静化した.活発な地震活動が6日後の2月1日まで続き,北西伊豆地区には地割れが生じた,と記録されている.

 1835年11月10日(天保六年九月二十日)正午前から地震が始まり,強まっていった.やがて西側山腹から噴煙が立ち昇り,赤熱したマグマも見えた.13火口が開口して,溶岩が笠地観音まで流れ下った.伊ヶ谷,阿古間にある中山観音で降灰があった.噴火は夜半に鎮まったが,噴煙,地震は止まなかった.13日夜の強い地震で崩壊が起こった.地震活動は19日には終息した.

 1874(明治7)年7月3日正午頃,突如として激しい地震,鳴響が起こるのと同時に,噴火が北北東山腹の標高560m付近から始まった.火口は割れ目状に標高200m付近まで開口した.南西風によって噴煙が火口東側の土佐-砲台方面に吹きかかり,粗い火山灰が大量に降下した.スコリアの降下後,溶岩が流れ出した.夕方近くに現在の神着地区の東にあった東郷[ひがしごう]集落を経て,海中にまで達した( 第2図).噴火,鳴動は4日後まで,活動は約2週間続いた.この噴火で東郷の30戸余りが埋没し,1名が行方不明となった.

20世紀の噴火:20世紀には1940年(昭和15年),1962年(昭和37年),1983年(昭和58年),2000年(平成12年)と約20年の間隔で噴火し,科学的な観測が行なわれた.

1940年7月の噴火の前には,赤場暁付近などで前年末から水蒸気が上がる,噴火の一週間程前には地熱の上昇,噴気,地鳴りが気づかれるなど明らかな前兆現象を伴った.噴火は7月12日19時30分頃雄山北東山腹標高200m付近から始まった.噴火割れ目が山腹上方及び下方にのびて,火柱が山頂と赤場暁湾を結んだ線上の標高500m以下に並んだ.噴火の開始と同時に溶岩が旧神着村,旧坪田村界の沢に沿って流下し,約1時間後には赤場暁湾に達した( 第2図).翌13日18時頃まではほとんど連続的に噴火し,その後間欠的となって急速に弱まった.溶岩の流出,火山弾・スコリア・火山砂の放出とひょうたん山スコリア丘の形成は12日20時頃からの約22時間に起こった.

 7月13日の夜半からは,山頂の大穴火口からも噴火が始まった.山腹の活動は14日3時30分の爆発を最後に終息したが,山頂火口からは18日頃まで猛烈に噴煙がでて北東方向に火山灰が降下した.19日から20日にかけて火口は拡大し,21,22日には山麓でも爆音が聞かれ,火山灰の他にスコリアも降下するようになった.24~26日は山頂噴火の最盛期で,間断なく爆発,鳴響が続き,頻繁に火山弾が投出された.このころ溶岩が山頂火口を埋め,溢れ出たらしい.活発な活動は30日まで続いたが,31日以降は弱まり,爆音は人々の注意をひかなくなっていった.8月3,4日夜には伊豆から空が真っ赤になる火映が見えた.8月3~6日には伊豆,伊ヶ谷に降灰があり,強い硫黄臭が感じられたが,8月8日には山頂火口の活動もほとんど終息した.

 噴火が山腹の居住域で始まったため,死者11名,傷者20名のほか,全壊・焼失家屋24棟,牛の被害など大きな被害を出した.

 1962年8月24日の噴火では噴火開始の約2時間前,20時29分頃から三宅島測候所で火山性微動が感知され,その数と振幅が増していった.噴火は22時20分の数分前に,東北東山腹の旧神着村,旧坪田村界の中腹で始まった.北山麓からみたスケッチ(気象庁,1964)によれば噴火は上部火口群の海抜400~450m付近で開始し,そこから噴火割れ目が上方及び,中部(中央)火口群,下部(ヨリダイ沢)火口群へ向かい次々に拡大した.23時11分には赤場暁-ヨリダイ沢間の電灯線が断線し,火柱が山腹から海岸まで並んだ.23時39分には山頂側の噴火地点はさらに上方へ移動した.やがて火勢の中心は山腹下部へ移っていく.翌25日1時頃上部火口群が活動を終えたのに続き,同日朝には中部火口群も衰えた.下部火口群だけが夜半まで噴石活動を続けたが,26日朝(3~5時)には沈静化した.火口は1.8kmにわたって,20あまりが並んだ.火山弾,火山岩塊は火口から200m以内に堆積し,火山灰は北東山腹に積もった( 第3図).下部火口群から放出された噴石によって,三七山スコリア丘が形成された.溶岩は三流が認められ,新赤場暁溶岩は赤場暁へ,中部溶岩はひょうたん山の南へ,ヨリダイ沢溶岩は三七山の南へそれぞれ流れ込んだ.噴出物の総量はおよそ2000万トンと見積られる.

 表面活動終了後は激しい地震活動に襲われ,8月26日15時48分には三宅島西海岸の深さ40kmを震源とするMJMA(気象庁発表マグニチュード)=5.9の地震(三宅島で震度5)が発生した.噴火のなかった島北西部で有感地震が頻発し,とくに8月30日には,伊豆地区で有感地震の数が2,000回以上に達した.このため一部島民が島外に避難した.

 1983年10月3日,噴火開始のおよそ1時間15分前の13時59分頃から三宅島測侯所の地震計に前駆的微震が記録され始め,14時46分に測候所から村役場に火山性地震頻発の情報が伝えられた.関係防災機関が連絡態勢にはいった直後の15時15分頃,雄山南西山腹標高450m二男山付近で噴火が始まった.噴火割れ目は上方,下方にのびていった.山腹上方の長さ3kmの範囲では初期に溶岩噴泉,20時以降は少数の火口からストロンボリ式噴火を行った.噴出したマグマの大半は溶岩になって谷沿いに流下した.溶岩流のうち最大のものは17時20分頃に都道を横切って阿古に流れ込んだ.阿古集落から最終の避難バスが通過した約10分後であった.阿古に残って孤立した80名は漁船によって避難した.この溶岩は340戸を埋没,焼き尽くした.一方,新澪池-新鼻海岸付近の長さ1.5kmの割れ目火口は海抜100m以下-海底で開口したため,16時38分,17時10分,19時17分,22時36分以降激しいマグマ水蒸気噴火が起こった.噴出物の大部分が火砕物として坪田方面の住宅,農地,山林に降り積もって被害を与えた.22時33分に新鼻南方4.6km深さ15kmでMJMA=6.2(三宅島測候所で震度5)の地震が発生した直後に一時的に南海岸付近の噴火が活発になったが,23時以降,噴火は間欠的になり,翌4日6時前には終了した.地震活動も2日後の6日の朝には衰え,1962年の噴火後とは全く異なる経過をたどった.割れ目は延長4.5km,火口は90個所以上に達した.


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