伊豆大島火山地質図 解説目次
1:はじめに - 伊豆大島の地形
2:伊豆大島火山の地質
3:伊豆大島火山の岩石
4:カルデラ形成以降の伊豆大島火山活動史
5:19世紀以降の活動
6:観測体制 - 防災上の注意点
7:文献(火山地質図での引用)
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5:19世紀以降の活動
伊豆大島火山では,安永の噴火以降,中規模(噴出量数千万tクラス)の噴火を30から40年ほどの問隔で起こしている.またそれより小規模な噴火活動も中規模噴火に続いて起きている.ここでは中規模噴火を主に述べる.
1876-77年:安永の噴火以降,1803年,1822-24年,1837-38年,1846年,1870年に降灰を伴う小規模な噴火があった.1876年12月27日から地震が活発化,火映現象が認められ,翌77年1月に噴火が始まった.1月20日には三原山山頂火口内に,スコリア丘が形成されてストロンボリ式噴火を起こしていたことが確認された.その後2月5日ごろに活動は終息した.1887年4月以降には三原山山頂火口内に竪坑状火孔が生じた.
1912-14年:1912年2月23日夜から三原山火口内で溶岩噴出が始まり,6月1日には火口内の溶岩の厚さは約35mになり,スコリア丘は高さ約100mに成長した.その後6月10日ごろにいったん噴火活動は停止し,その後しばらく火口底の陥没やごく小規模な溶岩流の噴出があった.1912年9月16日から火口底に溶岩流出,新スコリア丘を形成した.この活動は前回の活動より規模が大きく,10月30日にいったん終息した.1913年5月にはかつて竪坑状火孔があった部分が約60m陥没し,新スコリア丘の南東半がその中に崩落した.1914年5月15日夜半から爆発的な噴火活動が始まり,火山弾が三原山火口緑まで放出され,泉津や波浮港でも降灰があった.三原山火口内の溶岩は,火口縁最低部まで14mのところまで上昇した.5月26日の爆発の後活動はおさまり,火口底が陥没し始めた.1915年,1919年に火山灰・スコリアの噴出,1922-23年に溶岩流出を伴う小規模な活動があった.1922-23年の活動後竪坑状火孔が急速に拡大し,1933年-1940年に竪坑状火孔内でスコリア放出を伴う爆発的噴火活動を繰り返した後活動は収まった.
1950-51年(昭和25-26年の噴火):7月16日午前9時15分ごろ竪坑状火孔内から噴火が始まった.前兆は同日午前9時7分過ぎの火山性微動だけだった.スコリア丘形成と溶岩流出が起こり,9月13日には竪坑状火孔と三原山火口を埋め尽くして,三原山山腹へ流れ出した.噴火活動は9月23日に終息し,溶岩流も24日には停止した.翌1951年2月4日にふたたび溶岩片の放出が開始され,2月13日には溶岩流の流出が始まった.2月28日以降三原山火口縁を越えてカルデラ床へ流下し,4月初めに活動は終了した.
1951年4月から6月にかけて爆発的な活動が断続的にあった.6月14日と15日の噴火では噴煙が5,000mの高さに達した.6月27日には最大級の爆発が起こり,元町にかなりの降灰があった.28日には活動はほぼ終了し,火口底中央に竪坑状火孔が再現した.
1953-56年には竪坑状火孔内でストロンボリ式噴火やスコリア放出を伴う噴煙活動や爆発的活動があった.1957年8月から活動が活発化し,多量の噴煙があがり,爆発が起きるようになった.10月13日には新噴火口生成に伴い爆発が起こり,観光客など54名が死傷した.1958年から1964年にかけても爆発的な活動と,噴煙活動が続き,火映現象・空振・降灰も観測された.1964年から1969年,1974年には竪坑状火孔底内でのストロンボリ式噴火が数日から10日ほど続く活動が繰り返され,火山灰などの降下があった.1974年後半から火山活動は静穏化した.
1986-87年:1986年7月,12年ぶりに火山性微動が観測され,10月29日から連続微動となった.11月12日に竪坑状火孔壁から噴気が上がっているのが目撃された.
11月15日17時25分頃竪坑状火孔南壁(A火口)で噴火が始まった.高さ200-300mの火柱を噴上げる溶岩噴泉の活動が続き,噴煙は高さ3,000mに達した.A火口の活動は2,3日後にはストロンボリ式噴火となった.溶岩は1日約360万m3の割合で噴出を続けて竪坑状火孔,三原山火口を埋め,19日10時頃には展望台付近の火口縁を越え,溶岩流となってカルデラ床まで流れ下った(LA溶岩流; 第5図).19日23時頃から噴火・微動活動が衰え,その後散発的に爆発が起こる活動が続いた.
11月21日午前中から爆発が強くなり,黒煙や光環現象を伴うものも起こるようになり,空振は関東北部,東北南部からも報告された.14時頃からカルデラ北部で地震が群発するようになり,カルデラ縁付近では有感となった.16時15分,三原山北西のカルデラ床で,北西-南東方向の割れ目噴火が始まった(B火口列).16時44分にはA火口も活動を再開した.B火口列は大規模な溶岩噴泉活動を続け,北方と北東方に溶岩が流出した(LBI,LBIII溶岩流).噴煙柱は高度16,000mに達し,風によって東に流されスコリア・火山灰が島の東部に降下堆積した( 第5図).同日夜には房総半島の館山でも降灰が観測された.17時47分にB火口列の延長線上,カルデラ外の北西斜面で新たな割れ目噴火が始まり(C火口列),18時頃には溶岩が流下し始めた.溶岩流は谷沿いに元町に向って流れ下り,元町火葬場から70mの地点まで達した(LC溶岩流).合同対策本部は21日夜,全島民に対して島外避難命令を出し,全員離島となった.
21日夜半から22日未明にかけてA火口,C火口列での噴火はおさまり,剣ケ峰付近のB火口列での細粒火山灰を放出する噴火が23日午前中まで続いた.23日午後,B火口列の北東側に長さ約300mの小溶岩流が流出しているのが発見された.島の北西部には21日から,南東部には22日から活発な地震活動がはじまった.21日の夜以降,主に島の北西部と南東部で多数の亀裂が発見された.多くは割れ目火口と同様北西-南東方向の亀裂だった.1986年12月に行われた水準測量の結果,島の北西から南東にかけての地域が噴火に伴って沈降していることが明らかになった.12月17日午前から火山性微動が観測され,18日17時23分にA火口で噴火が始まった.噴火はストロンボリ式噴火で,19時30分頃まで続いた後鎮静化した.1986年噴火の後,元町小清水など島内の数ヶ所で新たな温泉,噴気帯が出現した.
噴出物:11月15日から19日までの噴出物量は約2,930万トン,11月21日の噴出物量は約2,900万トンである.三原山山頂A火口の噴出物はSiO2=52.5-53.2wt%程度の斜長石斑晶がやや目立つ輝石玄武岩であったのに対し,割れ目火口(B,C火口列)からの噴出物はSiO2=54.5-67%の無斑晶質安山岩からデイサイトと広い組成範囲を示し,A火口噴出物との間には組成のギャップがある.このことはA火口とB,C割れ目火口それぞれのマグマ溜りが独立していたことを示すと考えられている.
1987年11月16目以降の活動:1987年7月頃から山頂部での地震が増加,元の竪坑状火孔縁に沿った環状噴気が活発になった.11月16日10時47分に大音響とともに爆発し,三原山周辺に竪坑状火孔を満たしていた溶岩の破片を飛び散らせ,竪坑状火孔は約30m陥没した.18日にも噴火し,陥没により直径350-400m,深さ約150mの竪坑状火孔が再現した.翌1988年1月25日,27日にも小噴火があった.またこの時期に火口から放出される亜硫酸ガスにより農作物に被害が生じた.
1990年4月以降噴煙,地震,微動とも活動が低調になった.8月中旬から山頂で次第に地震が増加.10月4日未明小噴火した.山麓では西部-北東部にかけて弱い降灰があっただけだったが,三原山山頂付近では握り拳大の噴石が数百m飛散した.この噴火で竪坑状火孔内北側に直径約100mの陥没孔が形成された.噴出物は既存の火口周辺の岩片で,マグマ物質は含まれていなかった.
この噴火の後,表面的には目立った活動はないが,島内で散発的な地震,火山性微動が観測されている.また傾斜計,辺長測量の観測データから山体が膨張傾向にあり,地下へのマグマ供給が続いていると考えられる.