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樽前火山地質図 解説地質図鳥瞰図
4:樽前火山の活動史

活動史の概要:樽前火山はおよそ9000年前に活動を開始した.噴火活動を1000年以上の休止期間をもって区分すると,3つの活動期からなる( 第1表).第1活動期はおよそ9000年前,第2活動期はおよそ2500〜2000年前,第3活動期は1667年(寛文七年)から現在に至る歴史時代からの活動である.山麓地域における噴出物の層序関係と模式層序を 第1図 第2図に示す.なお噴出物の記載においては,Ta-a,Ta-bなどの先行研究による名称を可能な限り継承した.


第1活動期
 2回のプリニー式噴火をおこない,小規模な火砕流を発生した.活動期の総噴出量は3.8km3である( 第2図-1).プリニー式噴火の堆積物は樽前d降下火砕堆積物(Ta-d)で,下位の岩相ユニットTa-d2と,上位のTa-d1からなる.両者の間に時間間隙を示す証拠はない.Ta-d2は軽石の比重0.4〜0.6の発泡のよい赤橙色軽石を主体とする.火口から4kmの範囲内では,Ta-d2降下軽石中に火砕流堆積物(d2fl)が挟在する.層厚30cmから1m前後で,成層構造が発達する.降下軽石と同質な赤橙色軽石火山礫からなる.上位のTa-d1は比重1.6〜1.8の灰色スコリア火山礫からなる.粗粒なスコリアは丸みを帯びた外周部と湾入部を持つカリフラワー状の形態を示すものが多い.火口から東南東約15kmの苫小牧市有珠川5遺跡(地質図外)ではTa-d1直下の層準に火山弾が産出する (古川ほか, 2008).Ta-d2直下の炭化木片から約10ka(cal.)(佐藤, 1971),Ta-d2直下の炭化植物片及び黒色火山灰土から8.7〜9.2ka(cal.) の年代値が得られている(古川ほか, 2006).


第2活動期
 およそ6500年間の休止期を経た第2活動期では,3回のプリニー式噴火が短い休止期をはさんで起こった( 第2図-2).活動期の総噴出量は4.6km3である.最初期の樽前c1降下火砕堆積物(Ta-c1:曽屋・佐藤,1980など) は暗灰色スコリア火山礫からなり,スコリアの比重は1.6〜1.8である.c1fl火砕流堆積物はTa-c1中に挟在し,同質なスコリア質粒子からなる.層厚は1m以下で斜交層理を示し,火口の北側,5km以内の範囲に分布する.その上位の樽前c2降下火砕堆積物(Ta-c2 : 曽屋・佐藤, 1980)は褐白色軽石火山礫を主体とする.樽前火山周辺の広い範囲ではTa-c2は下位のTa-c1降下スコリアを直接覆うが,給源から30km程度離れた低湿地などの土壌発達条件の良い場所では,厚さ2cm未満の茶褐色土壌が挟在する (鈴木, 1994).このことから樽前c1噴火とc2噴火の時間間隙は地質学的に短い期間で,およそ数10年から100年以内と推定できる.樽前c2降下火砕堆積物は粒径変化から6つの岩相ユニットに区分できる.本質噴出物の褐白色軽石は比重0.6〜1.0で,上位ほど発泡度が低く,灰色軽石が増加する.最上位の火山灰からなるユニットは火口から30km以上の範囲に分布する.下位のユニットでわずかに普通角閃石を含む.火口から半径6kmの範囲ではTa-c2中にc2fl火砕流堆積物が挟在する.灰色軽石及び暗灰色スコリア岩塊を多く含む.Ta-c2の噴火年代は直下の黒色火山灰土及び泥炭層から2.5ka(cal.)前後の年代値が得られている(鈴木,1994など).次に噴出した樽前c3降下火砕堆積物は細粒な褐色軽石火山礫を主体とする.火口から15km以内の範囲で見つかり,現在の樽前山頂付近に向かって粗粒化・厚層化する( 第3図-2).Ta-c2との間に褐色の土壌を挟み,上下の噴火堆積物の年代と挟在する土壌の厚さから噴火年代は2ka頃と推定される(古川ほか,2006).


第3活動期
 1667年以降の活動を第3活動期とする.1667年と1739年には規模の大きなプリニー式噴火が発生した.19世紀以降は噴火の規模が減衰するものの,70回以上の噴火が記録されている.

1667年(寛文七年)の噴火:樽前火山から約150km南の下北半島田名部での記録によると,9月23日午後8時過ぎに鳴動が4〜5回あり,翌24日から26日まで断続的に噴煙が上がり,周囲は霞がかかったようになった(古川ほか,1997).この噴火で樽前b降下火砕堆積物(Ta-b)が東方に広く堆積し,山麓には火砕流が堆積した.この噴火の総噴出量は2.9km3である.樽前火山の南側ではTa-bが1663年に噴出した有珠b降下火砕堆積物(Us-b)をごく薄い火山灰土または植物片を挟んで覆う.降下火砕堆積物は10層の岩相ユニットからなり,上位ほど発泡が悪く,灰色軽石及びスコリア火山礫を多く含む( 第2図).火砕流堆積物は降下火砕堆積物中の2層準に挟在する.下位のbfl-2火砕流堆積物は白色〜灰色の軽石岩塊及び火山礫を多く含む塊状の火砕流堆積物である.降下火砕堆積物のユニットTa-b5は降下火山灰および細粒の降下軽石からなり,bfl-2と同時異相関係にある.上位の火砕流堆積物bfl-1は暗灰色の軽石・スコリア岩塊及び火山礫を多く含む.降下火砕堆積物のユニットTa-b3は桃灰色の火山灰混じりの降下軽石で,bfl-1と指交関係にある.錦多峰川上流の口無沼,樽前川下流の森田沼などはbfl-1により形成された堰き止め湖である可能性が高い.苫小牧市東部の沼の端(地質図外)では樽前b降下火砕堆積物に埋積された丸木舟が発見された (苫小牧市,1966).降下火砕堆積物の分布域では樹木の年輪幅に影響を与えた(Oka and Takaoka,1996).

1739年(元文四年)の噴火: 8月16日に地震があり,18日から30日にかけて噴火が断続的に続いた.そのうちの2〜3日間は周辺が暗くなるほどの降灰があり,噴火の末期で特に鳴動が強かった(石川ほか, 1972など).この活動では樽前a降下火砕堆積物が北東方に広く堆積し,山麓には火砕流が流下した.この噴火の総噴出量は4.5km3である.降下火砕堆積物は9層の岩相ユニットからなり,最下位のユニットTa-a9は小規模な降下火山灰である.引き続くユニットTa-a8はスコリア及び灰色軽石火山礫に富むが,それより上位のユニットは白色軽石火山礫及び火山灰が主体となる.最上位のフォールユニットTa-a1は軽石の発泡が悪く結晶を多く含むことが特徴で,分布・層厚ともにTa-a中で最大である.このことは噴火末期に最大規模の鳴動が記録されていることと調和的である.火砕流堆積物は火口から10kmの範囲に分布し,降下火砕堆積物中の4層準(afl-4〜afl-1)に挟在する.afl-4及びafl-3は大から沢上流,覚生沢など火口から6kmの範囲に塊状相が分布し,その周辺部に粗粒火山灰主体の成層相が分布する.いずれも白色軽石を主要な構成粒子とする.afl-4は遠方では火山灰主体の降下火砕堆積物ユニットTa-a7に漸移する.afl-2は火口から7kmの範囲に塊状相が分布し,大から沢上流,覚生沢などで層厚10m以上となり,灰色軽石を多く含む特徴がある.afl-1火砕流堆積物は火口から10kmの範囲でほぼ全方位に流下している.白色軽石を主要構成粒子としており,塊状相はほぼ全域で2〜3mの層厚で堆積している.afl-1は火砕丘斜面では長周期の斜交層理を示し,デューン地形を形成している.afl-1は遠方では降下火砕堆積物のユニットTa-a3に漸移する.afl-1〜afl-3火砕流は北麓及び北西麓で支笏湖に流入しており,モラップ湖岸及び風不死火山北西麓には,厚さ1m以上の細粒火山灰からなる再堆積物が分布する.モラップ湖岸には径5m以上の新鮮な褐白色軽石岩塊の転石があり,湖水に流入したafl-1火砕流から洗い出された軽石岩塊が漂着したものであろう.1799年(寛政十一年)頃,樽前山付近を通過した渋江長伯の絵画,及び1804年(文化元年)刊行の「日本名山図譜」では,樽前山の山頂部に溶岩ドームや噴気は描かれていない.よって1739年噴火で溶岩ドームは形成されず,小規模な活動も続いていなかった(石川ほか,1972).北半球では1740年に樹木年輪密度の変化があり (Briffa et al., 1998), 1739年の噴火が地球規模の気候変動に影響した可能性を示す.

19世紀以降の噴火活動:19世紀以降には70回以上の噴火及び活動記録があり,少なくとも5回の噴火ではマグマ物質を放出した.19世紀以降に噴火堆積物をもたらしたもの,明確な表面現象があったものについて, 第2表にまとめ,山頂部における火口地形等の変遷を 第6図に示す.1804〜1817年(文化年間)の噴火では細粒の降下火砕堆積物(Ta-1804-1817)が噴出した.噴火の詳細は記録されておらず,文化年間のある時期に噴火があったという伝聞があり(石川ほか, 1972), 現在は火口北東側2km以内で散点的に確認できるのみである.1867年の噴火では白老で厚さ5〜9cmの降灰・降礫が記録されているが,堆積物は見つかっていない.1874年の噴火直前には火口内に平坦な火砕丘と小型の溶岩ドームが存在していたとされることから,中央火口丘及び溶岩ドーム1の形成を1867年に対比する.1874年の噴火では中央火口丘内にあった溶岩ドーム1が破壊され,降下火砕物(Ta-1874)と火砕流(1874fl)を噴出した.1874flは火口北西側ではスコリア岩塊及び火山礫を主体としているが,北東から南側にかけては白色〜灰褐色の軽石を主体としており,舌状の末端崖を形成していることが多い.1883年の噴火では降灰と中央火口丘の南麓に小丘を形成した.小丘が溶岩か火砕丘かは不明であるが,1894年の噴火までの間に消滅した.この間に中央火口丘の火口はおよそ550mまで拡大した.1909年は3ヶ月間小規模な噴火及び鳴動が断続し,2回の爆発的噴火があり,火口近傍に火山弾と,比較的広範囲に降下火砕物を分布させた.4月17日午後に鳴動と噴煙が弱まった頃から溶岩ドームの噴出が始まったらしく,火映が目撃された.19日には山頂部に小丘が出現しているのが目撃され,4月23日と5月2日の現地観測で測量された.この溶岩ドームは4月17日から4月23日までに大半が形成され,その後ゆっくりと5月2日まで成長を続けていたらしい.その後,小規模な爆発によって溶岩ドームの東南部から中央火口丘に伸びるオールドフェイスフル列隙(割れ目火口)が形成された(Tanakadate,1924).1917年の調査では溶岩ドームの比高が低下し,北西側の崖錐に段差ができていた.1917年以降は北東-南西方向の列隙が形成され,さかんに降灰した.1926年10月30日の噴火は噴煙高度2km程度であったが,オホーツク海沿岸まで広範囲に降灰した(石川ほか,1972).1944〜1955年,1979年〜1981年の活動は火口付近での降灰や小規模な泥流が主体であった.1978年5月14日にはA火口から火山灰を噴出し,支笏湖岸で降灰した.220℃以上の粉体流が火口から約100m流下した(勝井ほか,1979).2001年及び2003年には火口の最高温度が600℃を越える時期があり,2002年と2003年にはA火口から土砂を噴出した(気象庁,2005).


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