北海道駒ヶ岳火山地質図 解説目次
1:まえがき - 駒ヶ岳火山の周辺の地質 - 駒ヶ岳火山の概観
2:駒ヶ岳火山の地質と活動史
3:駒ヶ岳火山の歴史時代の噴火
4:駒ヶ岳火山の岩石
5:活動の監視・観測 - 将来の活動と災害の予測
6:文献(火山地質図での引用)
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3:駒ヶ岳火山の歴史時代の噴火
駒ヶ岳火山は,1640年いらい多数の噴火記録を有する.特に1929年の軽石噴火では火砕流(軽石流)の流出が観察され,この現象は当時多くの人々により研究された(Tsuya et al., 1930; 神津ほか,1932; その他).駒ヶ岳の歴史時代の活動に関しては,勝井ほか(1975)により古文書が収録され,噴出物との照合も行われた.その後,年代に疑問のあったKo-c2降下軽石・火砕流に関し,これに相当する古文書が発見され,この活動が1694年であることが確かめられた(勝井・石川,1981).さらに,1640年の噴火でも火砕流の発生を伴ったことが明らかとなった(勝井・知本,1985).
以上の研究により,駒ヶ岳は歴史時代に1640,1694,1856および1929年の4回にわたって大規模な軽石噴火を起こし,4回ともすべて火砕流の発生を伴ったことが明らかとなった( 第2表).
1640年(寛永17年)の噴火
『松前年々記』その他の古文書によれば,1640年(寛永17年)7月31日,山鳴りが著しく,正午ごろ山頂が一部崩壊して崩壊物は噴火湾になだれこみ,津波が発生し,噴火湾沿岸で700余名が溺死した.津波は対岸の「ウスノ善光寺如来堂ノ后口山マデツナミ上レリ」(『雑羅記録』)と記されている.その後,激しい噴火が8月2日まで続き,空振は津軽地方でも感ぜられた.松前や津軽地方にも降灰があった.道南における降灰情況は,「寛永十七年六月十三日(1640年7月31日)……同時内浦獄(駒ヶ岳)焼崩内浦ヨリ松前上の国夷地迄焼灰降クラヤミ同十四日ヨリ十五日迄辰ノ時少宛晴レ十五日十六日迄少々宛降右ノ焼灰松前ニテ見候處雲ノ様子丑虎ヨリ紫雲色々出其雲四方エ散頓テ少シヅツ灰降……」(『松前年々記』)と記録されている.噴火はその後急に衰え,この年の秋,約70日後に静穏に復した.
駒ヶ岳火山東麓の出来澗崎の海岸付近では,直径2-3mの岩塊を含む岩屑が海中になだれこみ,新しい岬をつくった.堆積物は駒ヶ岳溶岩のほかに溶結凝灰岩の岩塊を含み,小丘群をつくって広く分布している.南麓の大沼・小沼地方に広く分布する小丘群も,同じ岩屑なだれ堆積物である.これらの堆積物の表面は多くの場合1640年のKo-d降下軽石に直接被覆されており,古記録の活動の推移と一致している.以上の岩屑なだれ堆積物がクルミ坂岩屑なだれ堆積物で,その総量は約0.25 km3である.駒ヶ岳火山の山頂部はこの崩壊により著しく破壊された.恐らくこの活動は永い休止期のあと新しい火道を開くにあたって,水蒸気爆発が先行し,山体崩壊をおこしたのであろう.
1640年の噴火で堆積した降下軽石が山田(1958)のKo-d層である.山麓では厚さ1-2mにおよび,その分布は乙部,厚沢部,上磯,臼尻,国縫,歌島などで層厚10cmとなっており,降灰が松前・津軽地方に及んだという古記録と符合する.Ko-d層の総量は約3.5 km3と推定されている.Ko-d層は,佐々木ほか(1970)により上下2層(d1およびd2)に細分されたが,火山灰の薄層の挟在または不連続的な粒度変化により, 第3図に示すように下位からKo-d1-d11フォールユニットに区分される(勝井ほか,1986).
Ko-d1は火山灰で,恐らく初期の水蒸気爆発の産物である.Ko-d2-d4はいずれも大規模な降下軽石で,恐らく7月31日-8月2日までの最高潮の噴火の産物であろう.Ko-d5-d10もこの間,あるいは8月3日までの降下軽石と考えられる.最上位のKo-d11は降下火山灰で,それ以降の衰退期の噴出物であろう.
1640年の噴火では,火砕流を示唆する古記録はないが,Ko-d3のフォールユニットに火砕流(軽石流)堆積物の挟在が確認される.火砕流堆積物は後述の1929年火砕流(軽石流)と類似した性質を示し,最大層厚は約4mである.火砕流堆積物の下位にクロスラミナをもつ火砕サージ堆積物を伴うことがある.
1694年(元禄7年)の噴火
駒ヶ岳火山の東麓ではKo-d降下軽石の上位に,僅かな腐植層をはさんで,Ko-c2降下軽石・火砕流が被覆している( 第1図).従来,Ko-c2層は暫定的に明和2年(1765年)の噴出物と推定されていたが,最近になって,『津軽藩御国日記』の一部につぎのような記事のあることが判った(勝井・石川,1981).
元禄7年(1694年)7月11日
「去頃松前山焼候に付青森町奉行覚書差出之記
一.松前山うちうらの嵩と申候而松前より五日路余下り国に御座候,先年寛永十八年従六月十三日焼,松前並南部にても大つなみにて人死有之由申候,其節青森浜塩二十間程沖江引申候由,
一.右うちうら嵩先年の焼残,去四日の朝より六日迄焼震動電有之由.(後略)」
この日記は,先年駒ヶ岳で寛永18年(註:寛永17年の誤記?)大津波を伴う噴火があり,さらに,元禄7年7月4日朝より6日まで噴火し,地震・火山雷を伴ったことを示している.この古文書はKo-c2降下軽石の噴出に相当する噴火を記述したものと解釈される.
この噴火は,1640年の噴火の54年あとに発生しており,Ko-d降下軽石の表層の腐植の発達が極めて悪いことも,理解できる.Ko-c2降下軽石は偏西風のため東方に分布し,東麓で層厚180cmに達し,火砕流(軽石流)を伴っている.噴出物の量は,おおよそ降下軽石0.26 km3,火砕流0.1 km3であるが,降下軽石分布域の大部分は東方海域にあり,その噴出量は上の値よりも多いかもしれない.
Ko-c2層は少なくとも5フォールユニットからなり,全体として中間部で軽石の粒径が最大となり,火砕流を挟在している.火砕流は凹地に厚く堆積しており,酸化して淡赤褐色を示す.
1694年(元禄7年)の噴火後,1765年(明和2年)と1784年(天明4年)に噴火のあったことが簡単に記述されているが,それらの噴火に対応する噴出物は残されていない.
1856年(安政3年)の噴火
1856年(安政3年)の大噴火については,『北遊乗』,『協和私役』,『観国録』,『蝦夷地土産』その他に多数の古記録が残されている.これらによれば,9月25日早朝,山麓で地震が頻発し,午前9時頃激しい噴火がはじまり,東麓で厚さ約60cmの降下軽石が堆積し,東方250kmの十勝川河口の大津でも約2cmの降灰があった.東麓では降下軽石のため,2名の死者のほか多数の軽傷者を出し,17軒の家屋が焼失した.一方,南東麓の留の湯では降下軽石につづいて火砕流に襲われ,多数(19-27名)が死亡した.高温の火砕流は,大沼から流出する折戸川を一時的に堰き止め,沼を生じ,あふれ出す水は熱湯となったという.噴火は当日夕方までにほとんど終り,その後約1ヶ月間,小噴火が時々おこった.
Ko-c1層が1856年降下軽石で,その分布は古記録とよく合っている.Ko-c1層は,東麓で3-5フォールユニットに細分され,降下軽石→火砕流→降下軽石の順に堆積している.Ko-c1降下軽石の量は約0.11 km3であるが,かなりの部分は東方海域に降灰している.また火砕流の主要部は1929年軽石流に性質が類似し,山腹から山麓の各地にみられ,一般に高温酸化により赤褐色を呈する.南東麓の留の湯付近では記録どおり折戸川沿いに流下し,河床から高さ数mの低い軽石流台地をつくっている.東山腹では軽石流に伴った火砕サージが波紋状地形をつくって分布している.火砕流堆積物の総量は約0.1 km3と算定されている.
この噴火で,山頂に安政火口(直径200m)を生じ,さらにその中に小規模な溶岩円頂丘が作られた.1856年の噴火も,破局的な軽石噴火は短時間(8-9時間)で終了している.この間に少なくとも0.2 km3の軽石・火山灰が噴出した.
1856年の噴火から1929年の噴火までの活動
1888年(明治21年)4月4日,小規模な水蒸気爆発
1905年(明治38年)8月19日,21-23日,25日,31日,9月1日に安政火口の南側で,小規模な水蒸気爆発,森町を中心とする北西山麓に僅かな降灰.
1909年の小噴火の14年後,1919年(大正8年)に再び小噴火がおこったが,その後大正の末期まで,1922年,1923年,1924年にごく少量の降灰をともなう小規模な水蒸気爆発がおきている.
1929年(昭和4年)の噴火
6月17日,駒ヶ岳は安政の大噴火いらい73年ぶりに大きな軽石噴火をおこし,降下軽石および火砕流を噴出した( 第4図).この大噴火も1日でほぼ終了した.神津ほか(1932),Tsuya et al.(1930)などの資料をもとに,この大噴火の推移が詳細な表にまとめられている(勝井,1985).その推移は概略次のようであった〔(1)-(5)は後述の降下軽石のフォールユニットに対応している〕.
噴火に先だち,6月15日に鳴動,16日に無感地震(2回)などがあった.
(1)17日0時30分ごろから小噴火がはじまった.
(2)9時53分から破局的な軽石噴火(プリニー式噴火)に移行した.噴煙柱は11時に高度13.9kmに達し,鹿部村を主軸として南東方へ降下軽石をもたらした.降灰開始の伝播速度は約60km/時であった.
(3)12時30分頃から噴火はますます激しくなり,小規模な火砕流の流出がはじまった.14時に噴煙柱高度は13.1kmであった.
(4)14時30分ごろから,噴煙柱から火口原へ落下する軽石が多くなり,しきりに火砕流が流下した.
(5)20時ごろから再び降下軽石が激しくなり,24時ごろ急に衰え,18日3時に噴火を終了した.19日には降雨のため,二次的な泥流が沼尻方面に流下した.
この噴火で降下軽石が南東麓の折戸で154cm(現在100-120cm),鹿部市街地で106cm(現在70cm)堆積し,その噴出量は約0.38 km3と算定されている.また火砕流は四方の山麓に流下し,その被覆面積は22.5km2,体積約0.14km3と推定される.災害は死者2名,負傷者4名,家屋全焼・全壊365戸,半焼・半壊1500戸のほか家畜・耕地・山村・漁場などにも大きな被害が発生した.噴火後,山頂の地形は一変し,安政火口は埋積され,その中心から南東側に少しずれて新しく昭和4年大火口(直径230cm,深さ50m)が開き,ヒサゴ形火口,マユ形火口および多数の割れ目も生じた( 第5図).
火口原における1929年噴出物:1929年の軽石噴出物は火口原で厚さ100mあまりも堆積している.火口原内では1929年噴出物の分級は良くないが,一般に降下軽石の特徴を示す.火口原の縁では一部に火砕サージ状の堆積物も挟在する.1942年噴火で火口原にNW-SEに横断する延長1.6kmの割れ目が開き,堆積物の断面がよく観察される.堆積物の中下部は溶結し,上部は気相変質帯をへて表層の非溶結部となっている(勝井ほか,1975).火口原にこのような多量の軽石が急速に堆積することによって,ここに一時的な軽石丘が生じたと思われる.しかし,噴火の10日後(6月27日)根本(1930)が登頂したとき,噴気により視界は悪かったが,火口原にこのような軽石丘は観察されず,多数の亀裂を記述している.恐らく,軽石丘は軽石の急速な溶結で噴火後まもなくつぶれ,現在のような浅い火口原となったのであろう.火口原の周辺には外輪山壁との間に,軽石の溶結による体積収縮によって生じた断層が多数発達している.安政火口は新しい噴出物の下に深く埋積されてしまったが,この位置を中心とした同心円状の割れ目が北東側に発達している( 第5図).この割れ目は内側落しの階段状断層で,安政火口付近で軽石が最も厚く堆積し,溶結による体積収縮量が最も大きかったために生じたと考えられる(Katsui and Komuro,1984).同様な同心円状の割れ目はマユ形火口の東側にもみられる.
降下軽石:1929年降下軽石はKo-a層(山田,1958)と呼ばれ,その分布主軸は南東方にある.駒ヶ岳南東麓でKo-a層の層序を検討したところ,下位からKo-a1-a5の5フォールユニットに分けられた(勝井ほか,1986).各フォールユニットは火山灰の薄層で区分される( 第6図).これらを広域的に対比し,噴火記録と照合したところ,各フォールユニットはそれぞれ上記(1)-(5)の時間帯の噴火で生じたことが確かめられた( 第7図).
山腹-山麓における露頭では,Ko-a1-a3は灰白色であるが,Ko-a4の軽石塊は表面に細粒火山灰が付着して帯褐色を示し,Ko-a5もやや帯褐色を呈する.東山腹-山麓における露頭では,Ko-a4フォールユニットのほぼ全部または一部が火砕流によって占められている.つまり,Ko-a4の降下中に大部分の火砕流が流下したことを意味する.記録による火砕流の流下時刻も,これと符号している( 第7図).Ko-a4の軽石塊の細粒火山灰の付着は,この頃,山腹-山麓が火山灰雲におおわれ,降下軽石がこの雲を通過して着地したためと考えられる.
火砕流:火砕流(軽石流)堆積物は,多量の軽石塊を含み,軽石・火山灰・岩片等からなる分級の悪い堆積物で,一般に谷から流出して扇状に山麓に拡がり,溶岩流のような自然堤防(レビー)や舌状のローブ地形を呈する(守屋,1984).各フローユニットの表面は,大型の軽石塊でおおわれ,内部は火山灰が卓越している.南西麓の赤井川では,1つの断面露頭で,最大5フローユニットが識別され,この方面に火砕流が何回も(根本,1930によれば約6回)流下してきたという記録とほぼ符合している.明確な観察記録は残されていないが,火砕流のほかに,山腹の尾根-斜面に火砕サージ堆積物が広く分布し,波紋状地形をつくっている(守屋,1984,地質図参照).南西山腹の赤井川登山口(海抜500m)付近では,この堆積物はラミナがよく発達し,分級度は軽石流より良好で,層序的には谷を流下してきた火砕流の下位にあり,一部はこれと指交する.鈴木ほか(1986)は,火砕流堆積物を谷型(軽石流堆積物)と尾根型(火砕サージ堆積物)に分け,尾根型火砕流は密度が薄く流下速度の速い火砕流であり,谷型火砕流は密度の濃いあまり流下速度の速くない火砕流であったと述べている.
1942年(昭和17年)の噴火
1942年(昭和17年)11月16日,駒ヶ岳火山は爆発して,山頂の火口原に延長約1.6kmにおよぶ大きな割れ目を生じた(石川・橋本,1943).
この噴火は,11月16日8時頃鳴動とともに始まり,8時10分頃には噴煙がのぼり,8時18-20分には噴煙が高く上昇し,この時にやや強い爆発地震を伴った.8時20-23分頃,駒ヶ岳の南-南東麓地方の大沼,軍川,留の湯などにおいて強い空振が感じられた.また雷光と雷鳴が目撃された.大沼北岸の地獄湾登山口付近からは,爆発の際に2本の火柱が火口上に立ち,大岩塊が放出されるのが目撃された.岩塊の放出は北麓の砂原からも見られ,火口上100m以上高く噴き上げられたと考えられる.8時40分頃には,黒煙は次第に白煙に変った.
爆発とともに火口より直立上昇した噴煙は,最高海抜8,000mの高さに達し,東南東の鹿部方向にたなびき,約5分後,火山礫が本別,留の湯間に降下しはじめ,さらに大岩,常路沖に及んだ.この地方では,火山礫に続いて粗粒火山灰,火山灰の順で降下した.降灰は10-15分後に止んだが,その後留の湯では30分間,第一発電所では正午すぎまで,鹿部では夕刻まで続いた.鹿部では堆積物の厚さが2cm以上に達した.
直立した噴煙が上昇しはじめると同時に,南方(地獄湾),東南方(留の湯),および東南東方(鹿部)の3方向に,山腹斜面を噴煙が流下した.その流下速度は大きく,恐らく火砕サージが発生したものと考えられる.この噴煙は幸い山麓民家までは達しなかった.
この噴火で頂部火口原に砂原岳西端下方から隅田盛にむかう延長約1.6kmの割れ目が生じた.この割れ目は,昭和4年大火口,ヒサゴ形火口を連結し,北北西-南南東の延長方向に開口したものである( 第5図).
爆発による固形噴出物は,火山岩塊,軽石,火山弾,火山礫,火山灰等であったが,それらは昭和4年の噴出物とよく似ており,新しいマグマに由来したものか,旧噴出物を再び放出したものか不明である.