aistgsj
第四紀火山>活火山>浅間
浅間火山地質図 解説地質図鳥瞰図
4:1108年の活動と追分火砕流 - 1783年の活動 - 噴火の経過

1108年の活動と追分火砕流

 この活動の最初の噴出物は,約0.4 km3の粗粒の褐色スコリアで,東麓に降下し,堆積した.次に大量のマグマが短時間内に火口からあふれ出て,スコリア質の火砕流として山腹斜面を急遠に流れ下った.主として南と北の裾野約80km2の地域に展開し,厚さ平均8m位の堆積物を生じた.この火砕流を追分火砕流と呼ぶ.堆積物の大部分は,黒色スコリア質岩塊と非溶結の黒色火山灰から成るが,湯の平から石尊山にかけての斜面に分布する堆積物は溶結している.吾妻川の両岸に大笹,大前の集落をのせている段丘は,軽度に溶結した追分火砕流堆積物から成っている.追分火砕流の噴出の直後に山頂火口から溶岩が流出し,北西方向へ流れ下った.溶岩流は高度1,500mで止まり,上の舞台をつくった.先端部の厚さは40m以上ある.


1783年の活動

 1783年の前掛山の活動は,1108年の活動に比べて規模は劣るけれども,今からわずか200年前の出来事であったので,古文書の記録や残された噴出物から,噴火の経過を詳しくたどることが可能である.


噴火の経過

 1783年5月9日に最初の噴火がおこった.この爆発で火口が再び開き,その後噴煙が絶えることはなかった.6月25日に再び噴火があり降灰した.7月17日に鳴動・噴火し,北麓へ軽石が降った.7月26日から本格的な活動が始まり,8月2日頃までは,断続的な噴火活動であったが,噴煙は高く昇り,北関東一円に火山灰や軽石の降下がはげしくなった.8月2日夜の噴火は特にはげしかったので,南東麓の村々の住民は3日の夜が明けると逃げ出す者が出はじめた.4日はほとんど絶え間ない爆発的噴火をつづけ,8月5日午前のクライマックスの大爆発に至った.この後,噴火は急速に収まり,8月5日の夜のうちに火口はほとんど平穏になった.

 軽井沢の宿では,「4日暮合の大焼に,火玉交って降下し,廿四五才の男焼石に撃たれて即死すといふに,駅内の狼狽一方ならず,…只我先にと押し合ひ,揉み合ひ行く様は,実に惨乱の極みなり」と,大混乱のうちに南に向け脱出し,大部分の人々は発知まで落ちのびた.8月5日に噴火が終了するまでに,軽井沢宿には厚さ約1.2mの軽石が堆積し,雪が積ったような景色であった.軽井沢宿の162戸のうち,52戸が火災で焼失し,83戸が堆積した軽石の重みで倒壊した.浅間火山の東から南の麓は,雷鳴や電光を伴う噴煙や赤熱した抛出岩魂の落下する光景などで,人々が恐怖し,混乱した.

 一方北麓では,8月4日「申の刻(16時)頃,浅間より少し押出しなぎの原へぬっと押ひろがり,二里四方斗り押ちらし止る.」と記録され,これは吾妻火砕流の流下に相当すると考えられる.

 「5日の四つ時午前10時頃既に押出す浅問山煙中に廿丈斗りの柱をたてたるごとくまっくろなるもの吹き出すと見るまもなく直ちに鎌原のほうにぶつかえり,鎌原,小宿,大前,細久保四ケ村一度にずっと押はらひ,...」.この時の爆発音は300km以上離れた各地で聞かれ,当時の江戸では戸障子が振動したという.

 鎌原村はこの「押し出し」の主流をまともに受けたため,住居は殆ど全滅し,463人が死に,93人だけが助かった.当時の鎌原村は,現在の村落と殆ど同じ位置にあり,その西側には軽石流堆積物から成る広い尾根が南北に走っている.助かった人々はこの尾根に駈け登って難をまぬがれたともいわれる.尾根の東斜面に小さな観音堂があり,石段が15段程ある.1980年に行われた発掘調査より,石段は地下へ50段続いており,最下段には犠牲者2人の遺骨が発見された.この「押し出し」は吾妻川渓谷に達し,なだれ込んだ土砂岩石は,現在の三原付近で川を一時せき止めた.そのため上流の水位は上昇し,やがてこの一時的なダムは決潰し,高水位の激烈な洪水のため,吾妻川沿岸の村々は大被害を受け,流失家屋約1,300戸,死者は合計1,377人に達した.

降下軽石堆積物
 軽石堆積物の等厚線は北東にのびる枝を除くと細長い長円形の輸郭を示し,主軸はE17°Sの方向にのびる.軽石は淡黄褐色で,密度は平均0.8,SiO2は62%,斑晶として斜長石,普通輝石,紫蘇輝石,磁鉄鉱等を含む.

 軽石層の上半分は,比較的粗粒・均質であり,おそらく8月3日から5日の朝までの間の短い期間中に堆積したと考えられる.下半分は比較的細粒で多くの単層が識別され,それ以前の間欠的噴火によって堆積したものと考えられる.

吾妻火砕流(M7)
 吾妻火砕流は山頂火口から3つの流れに分かれて,北東ないし北側の斜面を流下した.中央の流れが最も大きく,舞台溶岩流が作る台地状の地形の上を覆うようにして流下した.北東側の支流は高度1,450m付近で中央の流れに合流し,この2つの流れが黒豆河原をつくっている.最先端は火口から水平距離で約8kmの地点まで達した.第3の支流は北北西へ向い,現在の鬼押出溶岩流の北西縁から更に2km北方へ伸びている.

 堆積物はスコリア質の本質岩魂と同質の火山灰基質から成り,中央部は中程度に溶結している.堆積物の表面に露出している岩魂は直径2mに達するものがあり,特徴的な割れ目を示し,明瞭な急冷周縁部をもつ.これはパン皮状火山弾によく似た構造であるが,岩塊は角張っていなく丸味を帯びていて,キャベツのような外形をしている.溶結した吾妻火砕流堆積物中に,当時の樹木の幹がそのまま炭化して埋まったり,又は幹の形をした空洞が残っていたりするのが見られる.溶岩流にみられる溶岩樹型と同じ現象であり,高温の火砕流が大きな木の幹のまわりを取り囲んで流れ,静止後溶結して,樹幹の輸郭を残したものである.

鎌原火砕流/岩屑流(M8)
 鎌原火砕流/岩屑流は,8月5日午前10時頃起こった大爆発に伴って発生した.この爆発により,火道を満たしていた半固結状態の溶岩が引きちぎられて大塊となって火口より高く噴き上げられた.大岩塊は全部北側斜面に落下し細粒物質と共に一団となって,なだれのように北側斜面を高速で流下した.海抜1,300m付近から下流に向かって,大岩塊は地表を削り取り,幅800m,深さ最大40mの溝状の地形を作った.現在の浅間園博物館からプリンスランドにかけての範囲である.火口から水平距離で北へ約8km距たった地点では,鎌原火砕流の運動のエネルギーは急速に滅少し,大岩塊の多くは運動を停止した.しかし,掘り起こされた大量の土石は,岩屑流となってさらに北方へ流下し,吾妻川の峡谷に達した.鎌原・大前・大笹等の集落を破壊したのは,この岩屑流となった部分であった.

 鎌原岩屑流の堆積物の厚さは平均2-3mである.その大部分はもとの地表を構成していた古い火砕流,軽石流等の堆積物の破片の混合物から成る.一方,上流部に多い巨大な岩塊ほ,パン皮状火山弾のような特徴ある外観と構造を示す,高温の本質岩塊である.

鬼押出溶岩流(M10)
 鬼押出溶岩流は山頂火口から北へ水平距離で約5.5km伸び,6.8km2の面積を占める.急傾斜の上流部は最近の火山灰や火山礫等によって相当埋められているが,下流部は噴出当時の新鮮な地形が保たれ,黒色のゴツゴツした外見は周囲の岩石と明瞭な対照をなしている.上・中部では溶岩流の両側部が高まって堤防のようになっており,中央部は低まっている.鬼押出溶岩の表面の地形は,3種に分類される( 第4図).


 前をよむ 前を読む 次を読む 次を読む