青ヶ島火山 および 伊豆諸島南方海底火山
地質図 解説目次
1:はじめに - 青ヶ島火山
2:青ヶ島火山の地質と活動史 - 天明以前の火山活動
- 1781-1785天明の噴火
3:岩石
4:地下構造探査 - 火山活動の監視・観測
- 将来の活動と災害の予測
5:島弧上の海底カルデラを伴う火山
6:背弧リフト内の火山
- 海底火山活動の監視・観測・将来の活動と災害予測
7:文献(火山地質図での引用)
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2:青ヶ島火山の地質と活動史 - 天明以前の有史の火山活動 - 1781-1785天明の噴火
青ヶ島火山の地質と活動史(有史以前)
海面上の青ヶ島火山は,北部の黒崎火山とそれを覆う南部の主成層火山の2つの火山体で構成されている( 第2図, 第3図).
黒崎火山:海面上の青ヶ島火山の活動は,北部の黒崎付近での,比高300m程度,総体積0.3km3の小成層火山(黒崎火山)の成長に始まる( 第3図).まず,比高200m程度の玄武岩質のスコリア丘を形成した(神子の浦降下スコリア).次に安山岩溶岩の噴出が起った.神子の浦東方の火山礫凝灰岩の存在から,1回水蒸気爆発をおこしたらしい.その上を,総層厚50m以上の複数の玄武岩溶岩流および降下スコリアが覆った(西浦溶岩).最後に,サージが黒崎火山を覆った(西浦サージ堆積物).黒崎火山の中心部には,火砕岩や,火道角礫岩,貫入岩が残されている(火口内部および周辺を埋める火砕物,黒崎火道角礫岩).
主成層火山主部:黒崎火山の南東部で主成層火山の成長が始まった(主成層火山主部).主として玄武岩質の降下スコリアと溶岩流の互層からなる高さ約420m以上総体積3km3の山体を形成した.安山岩の量比は少ない.主成層火山主部の発達の間に,少なくとも2-3回程度のサージが発生している.主成層火山に属する岩脈は,西海岸,南西海岸,北東海岸で密度分布が高く全体として池の沢北部に中心を持つ放射状岩脈群を形成している.主成層火山主部形成の後期には,島の南東部で径約1.5kmの火口状凹地が形成された.その後主成層火山主部に属する溶岩流が流れ込んでいる.
主成層火山最上部:今から約3,500年前に島の北部を中心に割れ目噴火が起こり,スコリアの降下,岩さい集塊岩の形成,溶岩の流出が起こった(無斑晶玄武岩類)( 第3図).黒崎火山の古い火口の底部は無斑晶玄武岩類以前の火砕物で覆われていたが,無斑晶玄武岩類により最上部まで埋められた.無斑晶玄武岩類は神子の横原溶岩,金次郎火砕岩,平の耕地溶岩,下の平溶岩に分けることができる.後者の2溶岩は3枚のユニットからなる.無斑晶玄武岩類と同質の岩脈も存在する.噴出量は0.01-0.1km3程度であろう.乾陸上火山に成長した主成層火山体は,このころからマグマと水との接触を起こすようになったらしい.今から約3,000年前にマグマ水蒸気爆発がおこり,サージが全島を覆い,多量の火山豆石が降下した(尾白池サージ堆積物)( 第4図, 第5図).この尾白池サージ堆積物は集落付近で4m以上の厚さをもち,南東部海岸で20m以上の厚さに達し南東部の火口状凹地の下部を覆っている.およそ3,000-2,400年前の間に上記の南東部の火口状凹地の上部を,多くのユニットからなる溶岩流および降下スコリアが埋めた(金太ヶ浦溶岩)( 第4図)主として玄武岩溶岩の活動であるが,安山岩溶岩の噴出も起こった.一方,青ヶ島東部および北部では,多量のスコリアと少量の火山豆石が降下した(休戸郷降下堆積物)( 第4図)金太ヶ浦溶岩に関連した岩脈は,北北東の走向が卓越している.金太ヶ浦溶岩と休戸郷降下堆積物の推定総噴出量は,0.6km3程度であろう.次に岩屑なだれが発生し(流坂岩屑なだれ堆積物),最終的に現在の池の沢火口(径1.7kmx1.5km,深さ300m以上)が形成されたらしい.
天明以前の有史の火山活動
有史では,天明年間まで,堆積物を残すような噴火の跡は見いだされていない.ただし,17世紀に,噴火にまで至っていないが池の沢で異常があったことが記されている.1652年(承応元年)には,「山焼,されども吹き出さず……地上に煙立つのみ」(『南方海島志』),1670年(寛文10年)には,「池より細砂涌いて流れ出づることおよそ10年にして止む」(『南方海島志』)とある.
1781-1785天明以前の有史の火山活動
『青ヶ島諸覚』によれば「1780年(安永9年)新歴7月19日-24日(以下日付けは新歴)に地震が続き25日に地震がやんだ.28日からは池の沢のいたるところで湯が涌き出した.8月15日頃には池の沢にある大池と小池の水位がそれぞれ約6m,約10m上昇し,しかも水温も上昇し湯水になった.湯水の湧き出す場所も外輪山にまで広がった.(以上部分要約)」と記されている.1780年頃にはすでにマグマは浅所に上昇していた.
『青ヶ島諸覚」によれば「1781年(天明元年)5月までに池の湯水は引いてしまったが,5月3日-4日に地震が起こり,池の沢のみそねが崎で灰を噴出した.湯水が多くの場所から涌き出し,池にたまった湯水も塩水となったが,すぐに引いてしまった.(以上部分要約)」と記されている.1781年5月4日に池の沢で小規模の噴火が起こり少量の降灰があった.1781年に噴出した灰は,現在露頭で確認できない.
1783年(天明3年)の噴火については『青ヶ島諸覚』によれば,「4月10日に地震が起こり丑の刻(午前4時)に池の沢で火穴があき,莫大な量の火石が噴出した.火石が降下し人家63軒すべて焼失した.集落付近には約30cm積もった.火石は4月11日卯の刻(午前6時)まで降り続いた.そのあと,砂や泥土が降り積もり,午の刻(午後0時)頃,降りやんだ(以上部分要約)」と記されている.1783年4月10日-11日に,池の沢で爆発を伴う噴火が起こり2-3時間の間に火山岩塊・火山礫・スコリアが降下した(天明降下堆積物1).噴火の後半は,細粒物質が噴出・堆積した.噴火は約半日で終わった.湖底が海面近くにあったと思われる,大池・小池が埋め立てられ,丸山火砕丘の原形が形成されたと考えられる.複数個の火口,または割れ目火口が形成された可能性もある.金太ヶ浦の稜線では天明の降下堆積物が2m以上堆積している所があるので,池の沢南部でも爆発的噴火を起こしたのかもしれない.また,『青ヶ島御船中日記』には,「1783年6月,雨が降り,多量の砂,泥が谷などにあふれでてきた.こんなことはこれまでに聞いたことがない.(以上部分要約)」と記されている.天明降下堆積物1中に含まれる砂や泥,天明降下堆積物1の上にのる二次堆積物は,前述した『青ヶ島諸覚』の噴火の最後に降った砂泥や,後述した,噴火後の降水による土砂と考えられる.
1785年(天明5年)4月18日から始まる噴火については,記載が少ない.『青ヶ島諸覚』・『八丈実記』には,「北風が吹き集落の方へは火石は降らなかった(以上部分要約)」とある.また,『樫立村名主・市郎右衛門の見分報告書』には,「5月19日頃,池の沢より黒煙が立ち登りおびただしい灰や土砂が人家の方へ降りそそぐ(以上部分要約)」と記してある.これらを参考にすると,1785年4月18日に,再度噴火が始まり,黒煙が立ち登り,池の沢には粗粒の噴出物も降ったが,北部へは細粒スコリア・火山灰のみが降下した(天明降下堆積物2).噴火は1ヶ月以上継続した.しかし,6月4日に島民の半数(160人前後)が避難してからのことは記録がない.池の沢の堆積物から判断すると,池の沢では複雑化した火砕丘をさらに,火山礫・スコリア・火山灰が覆い,火山活動はだんだん間欠的になり弱まっていった.一方,火砕丘の一部を破壊しながら溶岩が流出し池の沢の残りの地域へ広がった(天明溶岩流).しかし溶岩流出の時期については不明な点が多い.1787年(天明7年),1788年(天明8年)には,島の様子を見に八丈島から青ヶ島へ人が渡っている.おそらく,噴火は,1787年までには終わっていたと思われる.
総噴出量は0.08km3程度であろう.天明の噴火では,地下でマグマと水が接触をしていた可能性があるが,1902年の鳥島のような水蒸気爆発にはいたらなかった.