1919年(大正8年)噴火
 −大地獄谷で発生した水蒸気爆発−

 西岩手火山の大地獄谷で1919年(大正八年)7月に水蒸気爆発が発生した.その経過を当時の新聞記事を基に以下にまとめた.

 松尾鉱山事務所の鉱山医が7月14日に岩手山から立ち上る白煙を認めた.7月15日には同社社員が現地付近で降灰と噴気を確認し,7月16日に岩手郡役場宛に異常を通報した.この異状報告を受けて,盛岡高等農林学校教師による現地調査が実施された.
 その際,9合目不動小屋の管理人に聞き取り調査をしたところ,およそ一ヶ月前に大地獄から白煙が立ち上るのを確認し,現場(編者註;大地獄谷)へも降りていってみたところ「グングン」ものの煮え立つ様な音や鳴動,三間(直径5m強)あまりの穴から噴気が上がり,付近一帯に降灰があったとの証言を得た.正確な日付けは不明であるが6月下旬には大地獄谷における異常が確認されていないことから,この活動は,7月上旬頃から発生し,その後何度か強い噴煙活動が繰り返したと思われる.
 今回の活動により形成された火口の大きさは三間〜五間(5m+〜10m程度).降灰は火口の周辺一町(100mあまり)では顕著でであるが,周辺の笹の葉上で三分(1cm)〜5寸(15cm)程度で,顕著な分布域は直径100m程度であった.降灰は南西方向約4kmまで達したと伝えられる.噴出物量が少なかったために,現在この時の噴出物を確認できるのは大正火口の周辺だけで,産状も地表直下の植物根が発達する部分に,白色の変質岩片が散在する程度である.噴火直後に噴出源近傍から採取された降灰は,硫黄その他の土砂(色調は鼠色)からなり,酸性の水溶成分を伴った様である.

 この噴火活動の後,しばらくの間,噴気活動が活発な時期が続き,火口の直径は噴火直後には約5-10mであったが,火口壁の崩落のため数ヶ月で拡大し,火口内は湯溜まりの状態となった.しかし,昭和2年頃には冷水になり,大地獄谷周辺の噴気活動は継続していたが,大正火口内の噴気活動は終息したようである.

大正噴火に関する記録に関する詳細情報
大地獄谷の地熱記録に関する詳細情報]

図1.西岩手−大地獄谷の大正火口

 噴火直後からしばらくの間,湯溜まり状になった,現在では大正火口内ではほとんど噴気活動を認めることはできない.



図2.大地獄谷周辺に露出する水蒸気爆発噴出物

 現地表面の直下に,地層として明瞭な火山灰層はほとんど認められないが,白色変質岩片が散在する層準が存在する(写真の[1]).この散在する変質岩片層が,大正噴火の堆積物と考えられている(伊藤,1999a).