1919年(大正8年)年の噴火
a) 噴火記録
b) 前駆現象
c) 噴火活動の開始と最盛期,終息
d) 噴出物

a) 噴火記録 
 1919(大正8)年の噴火活動について,複数の新聞記事が残されている(岩手日報 大正8年7月20日,22日,9月5日,岩手毎日新聞 大正8年7月20日,22日,23日).


図1.大正8年7月の噴煙   
(『岩手山記』より引用)

原典の説明には「大正8年7月の硫気噴煙」とあるが,撮影日が明示されていない.薬師火口縁からの撮影したと考えられる.背後の黒倉山の地形と比較すると噴煙の高さは100m以上と思われるが,上部は雲と同化し明確ではない.


図3.薬師岳から眺めた噴煙
(岩手毎日新聞;大正8年7月26日掲載)

大地獄から立ち上る噴煙.上部は雲と同化し不明であるが,背後の黒倉岳(標高1570m)と比較すると,噴気の高さは100m以上と推測される.


図2.大地獄谷噴火口
(岩手毎日新聞;大正8年7月25日掲載)

 火口直近から撮影された写真.火口一円から噴気が上がる.

 噴火活動に関する新聞報道の抜粋は,土井(2000a)にまとめられている.
 ここでは,これらの噴火活動記事の引用を最小限にとどめ,1919年噴火の概要について簡単にまとめる.

b)前駆現象
 前駆現象に関する明瞭な記録は認められない.

c)噴火の開始と最盛期
 噴火活動は,大正8年7月16日に松尾鉱山事務所から岩手郡役場に,噴火発生の通報があったことにより,人々に知られるようになった.この通報に至る経過については,7月22日の岩手毎日新聞にまとめられている.それによると,噴煙が視認されたのは7/14である.しかしながら,岩手山9合目不動小屋の管理人は,これ以前(一ヶ月程度前の日付不明)に大地獄谷からの白煙を遠望すると共に,大地獄谷周辺で異音や鳴動,三間(直径5m強)あまりの穴からの噴気と周辺部への降灰を確認している(岩手毎日新聞7月22日記事).また,盛岡高等農林学校の教授によると6月末には大地獄谷で異常が認められていない(岩手毎日新聞7月23日記事).以上のことから,1919年噴火の開始は7月はじめ頃と考えられる.
 岩手毎日新聞7月23日記事のなかで,盛岡農林関教授は,「7月初旬(日不詳)に二晩続けて「ゴー」という異音がしたことから,これが噴火活動の開始を示す」との見解を述べているが,この異音を聞いた場所等の詳細は不明である.
 岩石や土砂を周辺に放出するような噴火活動は,少なくとも7/15までに発生しており(岩手毎日新聞7月23日記事),7/20には微震が盛岡・小岩井で観測されたり(岩手毎日新聞7月22日記事),滝沢付近で鳴動が聞こえるとの記事(岩手日報7月20日記事)もあることから,7月半ばまでは,かなり活発な活動が継続していたものと思われる.しかしながら,山麓部での降灰については新聞報道で確認することはできない.

d)終息
 噴火現象そのものは7月初旬に終息していたと思われるが,大地獄谷に大正噴火孔の噴気活動は比較的長期にわたって継続した.大地獄谷の大正火口は「内部で音がし諸所からポヤポヤ湯気が立つ(中略)危険を冒せば平素歩けたところ」に新火口が形成され,噴火直後には「『グングン』ものの煮え立つ音や恐ろしい鳴動」(岩手毎日新聞7月22日記事)や,「底鳴りがして盛んに噴出」(岩手日報7/22)する状況であった.同年8月末から9月頃 になると,噴火孔径が崩落のために30間(約50m)程度に拡大し,湯溜まりができ,泡を立てながら沸き立っていたと報じられる(岩手日報9月5日記事).土井(2000a)は1928(昭和3)年の写真では火口湖に噴気は認められないことを報告しており,このころまでに大正火口付近の活動は終息したものと思われる.

大地獄谷の噴気活動の変遷 へのリンク]