大地獄谷周辺の地熱活動
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大地獄谷周辺の噴気活動も,時代とともに消長を繰り返している.大地獄谷の噴気活動の履歴については,現在も調査・検討の途中であるが,以下に概要紹介として,当時の記録をもとに大地獄谷の地熱活動をまとめた. 明治31(1898)年 桜井(1903)の記述によると,桜井が現地調査を行った1898(明治31)年当時,大地獄谷の噴気活動は存在していたが,あまり活発ではなかった様である. 「大量の硫黄堆積地あり現に硫黄製造業者採掘しつつあり(中略)北方数十間の所に移り谷底の岩間にある甚だ小なる硫気噴気孔となりて残れり,而して其噴気ガスの量も甚だ少量にして其の勢力もまた微なり」
明治40(1907)年 その後,大地獄谷では活発な噴気活動が記録されている. 「大地獄に下る 水は上流潺々として清かりしが やがて硫黄の涌き出づる大地獄に至れば 臭気甚だしく 深きポケットの中にかくせし銀時計など 多く硫化して黒くなりぬ 井上先生の銀縁の眼鏡の見事に黒くなりしは 大地獄旅行の記念断として 長く話柄に上るならんか その大地獄の恐ろしさは白気天に立ちのぼり 地下一寸尚皮膚をやくを得べき熱気にて察するを得べきなり」
ポケットに入れていた銀時計がみるみる黒く変色したこと等,活発な噴気活動の発生していたことを読み取ることができる.これ以降,大地獄谷を記述した複数の登山記録には大地獄谷での活発な噴気活動が記述されている.
[岩鷲登山日誌−明治四十年−岩手県師範学校生徒]
IBC岩手放送「岩手山」より引用 原
文のカナをひらがなに修正.読みやすくかするため一部空白を明けました.
大正8(1919)年7月14日頃 ;「小規模噴火」 大地獄谷噴気地帯において小規模な噴火(水蒸気爆発)が発生した.当時の新聞には,噴煙を目撃した登山者や地変の発生を認めた技士,現地調査に赴いた研究者の談話が掲載されている.土井(2000a)には大正8年7月20日〜9月5日までの新聞記事が抜粋されている. 松尾鉱山事務所は,7月14日に鉱山医が岩手山から立ち上る白煙を認め,7月15日に社員が現地付近で降灰と噴気を確認7月16日に岩手郡役場宛に異常を通報した.この異状報告を受けて,現地調査に向かった盛岡高等農林教師による現地調査が実施されたが,その際の9合目不動小屋の管理人に聞き取り調査をしたところ,およそ一ヶ月前に大地獄から白煙が立ち上るのを確認し,現場(編者註;大地獄)へも降りていってみたところ「グングン」ものの煮え立つ様な音や鳴動,三間(直径5m強)あまりの穴から噴気が上がり,付近一帯に降灰があったと述べている.この日付けは不明であるが,6月下旬には異常が確認されていないことから,7月上旬頃には既に噴火活動が発生し,何回かに渡って噴煙活動が強くなったと思われる. 今回の噴火により形成された火口の大きさは,三間〜五間(5m+〜10m程度).降灰は火口の周辺一町(100mあまり)で顕著で,周辺の笹の葉上で三分(1cm)〜5寸(15cm)程度.南西方向に4km程度飛散.噴出源近傍から採取された降灰は,硫黄その他の土砂(色調は鼠色),酸性の水溶成分を伴う.
[1919年噴火の詳細 へのリンク]
大地獄谷の大正火口は,1919(大正8)年9月には,火口が崩壊により約30間(50m強)に拡大し,その中に湯溜まりができていたことが,報道されている(岩手日報,大正8年9月5日).また,大正火口に近づくと,活発なガスの噴出による騒音が聞こえていた.
大正火口を撮影した写真を2枚示す(図2・3).図2は1930(昭和5)年に発行された書籍に掲載されたもので,大正火口が湯溜まり状となっており,多量の湯気が上がっている様子が分かる.図3は今回の調査で新たに発見した写真で,1933(昭和8)年までに撮影されたものである.湯気の状態は図2に比べると沈静化している.また湖面周辺からの噴気活動も認められない. 土井(2000a)は,1928(昭和3)年に撮影された写真では,大正火口の火口湖に噴気は認められないと報告しており,このころまでに大地獄谷(大正火口)付近での噴気活動は一旦沈静化した模様である. 昭和9(1935)年 昭和9(1935)年に薬師岳山頂部で地熱活動が活発化した際,大地獄谷の中田(1935)には,昭和9(1935)年前後の大地獄谷の噴気活動の様子が,記述されている.
昭和初期に一旦沈静化した大正火口付近の噴気活動は,1935(昭和9)年には再び活発化した模様である. [大地獄谷地熱活動に関する地質学的な検討] 大地獄谷付近の過去の(この場合は,地質時代を含めた)地熱活動を解析するため,高島ほか(1985)により変質帯分布図が公表されている.それによると,大地獄谷は現在の噴気地域を中心として,酸性の明ばん石帯を中心として,その外側に向かってカオリナイト帯,モンモリロナイト帯と広がる累帯構造が認められる.変質帯はほぼ南北方向に伸張する傾向があることが指摘されている. |
図1.大地獄谷 噴気・地熱活動域遠望写真[1993年10月撮影] 黒倉山山頂部から眺めた大地獄谷噴気・地熱活動域.写真中央の大地獄谷西斜面の白色変質地域の中心部で活発な噴気活動が継続している.噴気の下部に硫黄の付着が認められる.
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図2.湯溜まり状になった大地獄谷,大正火口(その1)
1930(昭和5年)発行「日本地理大系」より引用
大正末期から昭和初期の大地獄谷の大正火口を撮影した写真.大正火口は直径数10 mの湯溜まりとなっており,湯気が多量に上がっている.左から2人目の人物が口元に布を当てており,汗を拭いているのか,あるいは火山ガス臭を防いでいるのかもしれない.
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図3.湯気を上げる大地獄谷,大正火口(その2)
撮影:奈良直順,所蔵:盛岡市先人記念館
今回の調査で新たに発見された,大正末期から昭和初期(1933[昭和8]年以前)の大地獄谷,大正火口の写真.湯気の状態は図2に比べると穏やかである.中央気象台(1935)の大正火口の写真と比較すると,火口周辺の地形的な変化は認められない.
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図4. 1969(昭和44)年8月の大地獄谷噴気地域の地中温度分布 鈴木ほか(1970)より引用
図は,西側から斜面上部に向かって眺めたもので,左手が北となる.大正火口からの噴気は観測されず,観測当時噴気を上げていたのはこの大地獄谷の西側斜面からだけである.噴気は硫黄臭が強く「観測は困難を極めた」と記載されている.また,直径30-50cm,高さ10-15cm程度の硫黄塔が認められている.
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図5.大地獄谷噴気・地熱活動域の変質帯分布 高島ほか(1985)より引用 一部改変
図中のマークの説明:1(Ch); 緑泥石帯,2(P);パイロフィライト帯,3(A);明ばん石帯,4(K);カオリナイト帯,5;モンモリロナイト帯,6;ハロイサイト帯,7;噴気地点,8;温泉,9;ハロイサイト,10;サンプル採取地点
噴気・変質活動の中心地域は,大地獄谷の南側〜その西側の沢筋(現地で西小沢と仮称されている地域)である. |
図6.1999年に生じた地熱異常地域 土井(2000a)より引用
西小沢付近で,1999年以降地熱活動の活発化により植物の枯死が進行した.この地域は上図の1400m付近の強変質帯の周辺域に相当する.このことから,1999年以降の地熱活動は,既に存在していた噴気システムが再活発化したことを示唆していると思われる. |
図7.大地獄谷近傍の湧水群[1993年10月撮影]
焼切沢を流れ下ってきた沢水は清浄で大地獄谷に至るまで,新鮮な河床に硫黄付着物は認められない.大地獄谷周辺になると,河床に硫黄沈殿物を付着させる湧水が点在するようになる.
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図8.河床には硫黄沈殿物(いわゆる湯ノ花)が付着している.[1993年10月撮影] |
図9.噴気孔周辺に昇華・付着した硫黄 [1997年9月撮影] 活発な噴気孔の周囲には火山ガスから昇華した硫黄が付着している.噴気はゴウゴウと音を立てて噴出していた.
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図10.大地獄谷噴気地帯の地表部 [1997年9月撮影]
温泉水や地下水,火山ガスが場所を変えながら地表に噴出する.活発な噴気活動を継続している噴気孔や活動を終えたものが地表部のあちこちに口を開いている.写真手前の噴気孔の直径は約50cm.
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図11.大地獄谷噴気地帯に形成された硫黄塔 [1997年9月撮影]
活発な噴気口の周りには,高さ1m弱の硫黄塔が形成されている.
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1999年3月からの地熱活動の活発化により,現在においても大地獄谷の噴気地域への立ち入りは禁止されている.大地獄谷では,岩手県による火山ガスモニタリングが実施されている. |
図12.大地獄谷登山道沿いに設置された火山ガスモニタリング装置 大地獄谷周辺では硫化水素(H2S),亜硫酸ガス(SO2)を含んだ火山ガスが噴出しており,岩手県などによりモニタリングされている.写真は大地獄谷噴気港の上部に設置されたモニタリング装置.
[大地獄谷登山道沿い] |
図13.大地獄谷登山道沿いに設置された火山ガスモニタリング装置 大地獄谷噴気孔下部に設置されたモニタリング装置
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