薬師岳山頂部の地熱活動
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岩手火山は,「山上に岩穴あり…硫黄常に燃へ 雲霞山を巻 山上窪中に有山 燃火嶽と云う」(『岩手山記』[岩鷲山神位之事])と伝えられるように,昔から山頂部(薬師火口内の妙高岳スコリア丘付近)から噴気が上がっていたと思われる.薬師岳山頂部の噴気活動の履歴については,現在も調査・検討の途中であるが,以下に概要紹介として,当時の岩手火山山頂部における噴気・地熱活動に関する記録・報告を年月の流れと共に簡潔に記述する.
明治時代前期:
ミルン(J.Milne)は岩手火山に1877(明治10)年に登山し,その際の薬師岳山頂火口内の状況を簡単なスケッチとともに,以下のように記述している.
...
a steep slope of scoria to the upper
crate, in the middle of which there is another small cone. This is
still streaming. ...
;Milne(1886) p.116
Regular cone, with crater slightly streaming ;同上 p.171
このように,薬師岳山頂火口(特に,妙高岳スコリア丘)で噴気活動の存在が確認されるが,ミルンはスケッチに噴気を描いておらず,その活動の程度は弱かったと思われる.
田鎖綱紀の1880(明治13)年6月27日の岩手山登山に関する記録「岩手山道廼記」には,薬師火口内の妙高岳スコリア丘に対して以下のように記している
四辺皆な高く 凹中の下底に兀たる石山あり 高き事 数十仭 基名を燃●(火へんに軍)岳と云う 該山は死石と硫塊とを以て成る故 其色ろ 灰白の如にして 四辺の凹地と その色異り 人此の山上に上るを拒むは盖し硫山なるが故 其危害を懼るればなり (中略)
蒸気を石間に発するなるへし之れを過ぎ数歩の地に石堂竝建(後略)
この登山記からは,妙高岳では登山者が登るのを躊躇する程度の硫気活動は続いていたこと,奥宮付近の溶岩の間から蒸気が出ていたことが読み取れる.
また,1879(明治12)年に発行された「岩手県管轄地誌」には,
岩手山神社の本祠とす祠後また拗して一区域をなし 硫気尤も甚しくして黄煙噴起する処あり
と記述されている.管轄地誌は1872(明治5)年の「皇国地誌編纂の布告」および 1875(明治8)年の「皇国地誌編輯例則并着手方法」の通達によって,全国で編集が開始された.このことから,「岩手県管轄地誌」の記述は明治10年前後の編纂時,薬師岳山頂部(妙高岳)においては比較的活発な噴気活動があったという認識が地元では定着していたことが推測される.しかしながら,直接的な噴気の目撃記録ではないため,同時の状況をどの程度正確に表しているかは不明である.
Milne(1886)および田鎖(1880)の記述より明治初期〜中期頃には,山頂部での噴気活動は,弱いながらも比較的明瞭であったと判断できる.活動の程度については,不明確であるが,現在と同レベルか,あるいは妙高岳への登山を躊躇させる程度のやや活発な活動が起こっていたと思われる.
明治時代後期:
桜井広三郎は岩手火山の地質調査を1898(明治31)年に行った.山頂部の噴気活動について以下のように記述している.
土地の人の言に依れば 近々数年以前迄 妙高ヶ岳の頂上御室火口よりは 硫気ガスの昇騰ありて その火口辺に近つき得さりしと云い また妙高岳の東麓にのある土称"胎内潜の岩"の下にはまた小噴気孔(今は滅して無し)あり;桜井(1903)
[編者註;仮名混じり文を,現代表記に修正した]
この桜井の記述によると,1898(明治31)年の数年前まで御室火口は周辺に近づきがたいほどの噴気活動があったとの地元住民の証言を記録している.これが事実であれば,田鎖が登山を行った1880(明治13年)から明治31年の間に,御室火口の噴気活動が活発化した時期があった可能性がある.
桜井(1903)は現地調査時,御室火口内に入って調査していること,また過去の事例を知った上で妙高岳東麓の噴気活動が確認できなかったことから,1898(明治31)年当時には薬師岳山頂部の噴気活動は静穏な状態であったと思われる.
宮沢賢治は1909(明治42)年秋以降,何回か岩手山登山を行っており,その最初の登山について記した父親宛の手紙が残されている.
日の出を四合目に見頂上に上り,お鉢参りをしてそれより網張口へ下り 大地ごくの噴煙のところ
[宮沢賢治,明治43(1910)年10月1日付け書簡]
これは1910(明治43)年9月23日〜25日の登山に言及している部分であるが,大地獄谷の噴煙については記載されているのに対し,薬師岳火口に関してはお鉢周りを行った事だけが記述されている.
大正時代:
宮沢賢治には,岩手火山を題材として利用した作品がいくつかある(例えば東岩手火山,風の又三郎).文学作品であるため,脚色が加えられていると見るべきであろうが,それらには山頂部で眠ったり,御室火口内に入り込む描写が認められるのに対し薬師岳山頂部の噴気活動は記載されていない.むしろ薬師岳山頂部における静穏な状況が記述されている. 1924(大正13)年の夏(6月1日あるいは2日)に宮沢に引率され岩手山に登山した小原氏の回想録には,下記のように妙高岳麓の神社付近で露営した状況が記載されている.
頂上の神社に雑魚寝するのだがとても寒くてブルブル震えて眠るどころのさわぎではない.先生はかねて用意の新聞紙を配り身体に巻付けるように云った.やがてほかほかとあたたまり眠ることができた.
[小原(1974)]
小原氏の回想録には,妙高岳麓付近での地熱について全く記述されていない.これは昭和期に入ってからのほぼ同地点での露営において,地熱を明瞭に感じられたとする複数の記述とは対照的ある.
また,中央気象台(1935)には,1919(大正8)年大地獄谷の水蒸気爆発発生の翌年の状況について下記の記述がある.
大地獄爆裂の翌年頃に東岩手南東側面(御不動平の上方)の這松が一面に枯れたことがあるといふ者もあり,
これは事象の後14-15年後の伝聞情報であることから,これを確認する目的で当時の地元新聞を調査したが,岩手山の地変に関係する記事を見出すことはできなかった.
昭和9-10年(1934-35年);
中田(1935)は,薬師岳山頂の岩手山神社奥宮宮守体験談として山頂部の地変を報告している.それによると1934(昭和9)年7月中旬から,薬師火口南東縁に砂礫の変色域が現れ始めた.8月頃からは面積数平方mの高温域が出現し,9月には10倍程度に拡大した.これと同時に妙高岳の南東山腹に噴気地点が出現した.同年9月15日には盛岡測候所員が現地調査を行い,薬師火口南東縁約150平方mの範囲で硫黄臭を感じない噴気を認め,15cm深の地温86.1℃を観測している.また,妙高岳南東山腹の約5-6平方mの範囲から,硫黄臭のある優勢な噴気活動を確認し,その温度を93℃と報告している.12月には妙高岳の南東山腹の噴気地域は約60-70平方mに拡大し,硫黄臭も認められるようになった.,
盛岡測候所(1935)は,その後1935(昭和10)年までの地熱活動の変化を簡潔に記している.それによると,すくなくとも1935(昭和10)年4月までに,薬師火口縁南東部の噴気活動は幅15m,長さ140mにまで拡大し,地表一面から活発に噴気した.一方,妙高岳山腹では噴気活動は認められなくなっていた.しかしながら,それまで異常がなかった御室火口で,岩塊の間から噴気活動が認められるようになる. 1935(昭和10)年からは,不動平7合目(現在の不動平避難小屋の脇)に岩手山測候所建設の準備が始まり,1953(昭和28)年まで山頂部での駐在気象観測が行われた.特に,1944(昭和19)年1月から1947(昭和22)年7月までは,火口地温観測が年2回,噴煙観測が1日3回の頻度で実施された(盛岡測候所,1977).この間,妙高岳および御室火口における火口噴気温度は沸点程度で推移した(気象庁地震課,1972).
昭和30-55年頃(1955-80年頃);
諏訪彰(当時;盛岡地方気象台長)は,岩手日報に岩手火山の現況に関する解説を寄稿している(諏訪,1968).それによると1958(昭和33)年の岩手山群発地震を発端として,1959(昭和34)年頃から噴気活動が活発化し,1962(昭和37)年以降は現在(1968年)まで噴煙量に変化がない様子だと総括している.
盛岡地方気象台が1962年から盛岡測候所(盛岡市山王町;岩手火山山頂から南東約22km )から実施した遠望観測(気象庁地震課,1972;土井,2000a)によると,1962(昭和37)年から1971(昭和46)年にかけて山頂部の噴気活動が活発で,その中で1963(昭和38)年と1969-70年は活動が比較的活発であった様子である.1971(昭和46)年以降は活動に低下傾向が見られ,1977(昭和52)年以降には盛岡市街地から噴煙はほとんど認められなくなる
[現地観測]
噴気活動が比較的活発であった1960〜70年(昭和35-45年)にかけて,岩手火山で詳しい地熱・噴気観測が複数回か実施されている.
昭和35(1960)年7月および9月には,野口ほか(1961)が薬師火口内での噴気調査を行い,噴気量に関する記述はないものの,妙高岳東斜面で360℃以上の噴気温度を観測すると共に,御室火口で236℃,183℃の噴気孔を観測した(図4).
昭和38(1968)年10月には,盛岡地方気象台の諏訪氏ら3名が現地調査を行い,妙高岳南東斜面で200℃以上の地熱(編者註;噴気温度か?)を観測した(岩手日報;昭和43年11月27日記事).
昭和39(1969)年8月には,東北大学が地震観測と共に地温測定を実施した.それにより,薬師岳山頂部で野口ほか(1961)の報告とほぼ同規模の噴気活動を確認した(鈴木ほか,1970).
昭和45(1970)年7月には,気象庁の機動観測が行われ,妙高岳においては「噴気がもうもうと立ち込めている」状況で,最高304℃の噴気温度を観測した.また,御室火口内において,火口斜面の岩塊の隙間から236℃の噴気が吹き上がり,一部の噴気孔では小石を飛ばす程の強い噴気の存在を確認している(気象庁地震課,1972).
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年代
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御室火口内 |
妙高岳東山腹
(岩手山神社奥宮を含む) |
薬師火口東縁 |
明治10(1877)年 |
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岩手山神社付近に噴気あり |
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明治20年代後半?
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一時活発化?
(近づき難い程度か?)
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明治31(1898)年
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噴気活動認められず
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大正〜昭和初期
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噴気活動認められず
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噴気活動認められず |
噴気活動認められず |
昭和9(1934)年
7月
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中頃;変色域出現 |
8月
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高温域出現 |
9月
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硫黄臭のある噴気確認
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高温域10倍に拡大 |
12月
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噴気地域拡大
最高地表温度91.5℃
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地表一面から活発に噴気
地表温度83.4℃〜90.5℃
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昭和10(1935)年
4月
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岩塊の間から噴気確認
噴気温度92.8〜93.2℃
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地表変色部は存在するが,噴気無し
地表温度32.5℃
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昭和19-22
(1944-47)年
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記載無し
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沸点(94℃)程度の噴気
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沸点(94℃)程度の噴気 |
昭和35(1960)年
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岩塊の間から高温(261℃)噴気活動 |
高温(360℃以上)噴気
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活発な噴気活動
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昭和43(1968)年 |
高温(200℃以上)噴気 |
高温(200℃以上)噴気 |
昭和44(1969)年 |
高温(330℃以上)噴気 |
高温(360℃以上)噴気 |
昭和45(1970)年
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高温(236℃)噴気活動 |
高温(304℃)噴気 |
昭和49(1974)年
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噴気活動減退
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昭和55(1980)年
以降
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穏やかな噴気
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穏やかな噴気 |
かすかな噴気活動
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表1.明治時代以降の薬師岳山頂部の噴気活動推移のまとめ
山頂部の噴気活動の変遷を上の表に簡単にまとめた.これまでの記録から判断すると薬師岳山頂部の噴気活動は,数十年スケールで活動の状態が変化しているようである.
明治中期ごろまでは,山頂部(特に妙高岳周辺)の噴気活動は現在の噴気活動と同程度かやや活発であったと考えられる.しかし,明治時代後半(明治30年代)から大正時代および昭和初期までは,噴気活動は現地においてもほとんど確認されないほど低下した.ところが,昭和9-10年にかけて硫気臭を帯びた噴気活動が活性化し,昭和35年〜45年頃には最盛期を迎えた.その後現在に至るまで,山頂部でわずかな噴気が認められる程度の沈静化した状態を保っている.
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表2.1944年以降の岩手火山における地温・噴気温度の最高値の推移
(気象庁地震課,1972)より引用
表中の“外輪山”とは薬師火口を指す.東岩手における噴気活動は,1960〜1970年にかけて妙高岳南東斜面及び御室火口で活発な状況が継続し,盛岡市からも優勢な噴気活動が観測されたが,この時期に妙高岳において300℃を越える噴気が観測されている.また,西岩手においても,大地獄谷において1969年頃から高温噴気が確認されるようになった.
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表3.火山ガス組成(1970年と1960年観測値)
(気象庁地震課,1972)より引用
火山ガス組成の測定方式が,1960年の野口によるものと1970年の気象庁によるもので異なるため,換算されている.1970年の妙高岳・御室火口の噴気ガス組成は1960年に比べH2S,SO2, HClが減少している傾向が認められる.これに対して,気象庁地震課(1972)は「噴気温度の低下とも関連する現象と考えられることもできる」としている.
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明治時代
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図1.[上]明治10(1877)年の薬師岳山頂部のスケッチ図
(Milne,1886)より引用
[下]ほぼ同一地点から見た現在の状況
図内には " Upper cone and crater of Ganjusan " と記されている(編者註;巖鷲山は岩手山の別名).手前中央の火口が御室火口で,その右手が妙高岳スコリア丘.写真右の山脚部に岩手山神社がある.妙高岳スコリア丘東側斜面の白色変質域は,右手の稜線部にあたる.画面奥のピークが薬師岳の最高標高点で,Milneのスケッチ図ではかなり強調されて描かれている.
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図2.明治31(1989)年の妙高岳および御室火口の様子
(桜井,1903)より引用
図1とほぼ同位置からのスケッチ.桜井による明治31 (1989)年の現地調査の時点では,薬師岳山頂部において明瞭な噴気活動は認められなかったため,スケッチにも噴気が描き込まれていない.
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大正末〜昭和初期
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図3.昭和初期の薬師岳山頂部
(東京朝日新聞社撮影)
1929(昭和4)年刊行の「アサヒグラフ」に掲載されている航空写真.薬師火口の東側上空から西方を望む.噴気活動は認められない.妙高岳東斜面の白色部は現在も粘土化変質が著しい地域である.
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昭和9-11(1934-36)年
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図4.昭和10(1935)年3月の岩手山山頂の噴気活動
[岩手日報:昭和10(1935)年4月2日掲載]
昭和9(1934)年7月頃から薬師岳山頂部の噴気活動が顕在化し,地元で異常として報じられるようになった.噴気活動は一時沈静化したが,昭和10(1935)年3月末から再び活性化した.写真は3/31に地元登山隊が薬師岳山頂で撮影した噴気活動の様子.
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昭和35〜45(1960-'70)年頃
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図8.盛岡測候所による,盛岡市街地からの岩手火山山頂部の噴煙活動の推移
土井 (2000a)より引用
噴気量中〜多の割合を示す日数が 1962年,1963年,1965-67年,1969-72年にかけて観測されている.1962-74年まで「噴気量小」とランク付けされた活動が観測されているが,1975年以降「噴気無し」となっている.
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図4.1960年7・9月の東薬師岳山頂部の地熱活動
(野口ほか,1961)より引用
妙高岳東部山腹,御室火口壁及び火口底で高温の噴気を観測すると共に,薬師岳火口東縁部から南縁部にかけての地点で,沸点に近い噴気を確認している.
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図5. 1969年8月の東岩手-薬師岳火山山頂部の地熱活動
(鈴木ほか,1970)より引用
妙高岳南東部及び御室火口南西壁の高温噴気孔の存在など,野口(1960)の観測結果と同等の活動が継続していたことがわかる.一方,薬師火口の南東縁の噴気地域として図示されている地域は拡大している.また,御室火口の西部の薬師岳火口縁西内壁部(平笠不動へ至る登山道分岐の火口縁内壁)で70-80℃の地表温度が観測されている.この地域は,昭和10(1935)年3月に長沢氏らによる山頂噴気の観測の際に認められた高温地域と考えられ,諏訪らによる昭和43(1968)年の調査でも87℃の地温が観測されている.
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図6.1970年7月の東岩手-薬師岳火山山頂部の地中温度分布
(気象庁地震課,1972)より引用
地中30cm深における地中温度の測定結果.観測間隔は測線に沿って約10m間隔.妙高岳南東部の地中温度90 ℃の領域内で,最高温度304℃の噴気温度が観測されている.鈴木ほか(1970)によって把握された薬師岳火口縁西内壁の地熱地域については,北半分が側線域外となったためその広がりは明確ではない.
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図5.1960年代後半の薬師岳山頂部の噴気
(毎日グラフ別冊「日本の火山」昭和45(1970)年4月1日発行,毎日新聞社)
妙高岳東斜面から明瞭な噴気が上がっている.また,御室火口の南東壁(の2箇所)からわずかながらも噴気が上がっている.また,写真手前の薬師火口東縁にもわずかながら噴気活動が認められる.
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図6.1960年代の薬師火口内,妙高岳東山腹の噴気活動
(IBC岩手放送1973年発行「岩手山」より引用)
写真手前には,岩手山神社奥宮の石碑や石塔が複数見えている.その右手の岩塊の集積部(妙高岳スコリア丘下部から流出した溶岩流の表層部で,この一部が“胎内潜り岩”と呼ばれている)からも噴気が上がっている.活発な噴気活動は,妙高岳スコリア丘の東斜面の白色変質部で起こっている.
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図7.1960年代の薬師火口内,妙高岳東山腹の噴気
(IBC岩手放送1973年発行「岩手山」より引用)
図3と同様に,手前に岩手山神社の石碑が写し込まれており,噴気は妙高岳スコリア丘の東斜面の白色変質部から立ち上っていることがわかる.出典の説明文には「秋から冬にかけて強くなるので遠望することができる」とある.
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1980年代以降
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図9.薬師岳火山の火口縁東部の噴気[1993年10月撮影]
薬師火口の東縁部は,現在では極弱い噴気活動が認められるだけである.1998〜2002年にかけて地表下1mで観測された地温は沸点温度程度である(松島ほか,2002など).
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図10.妙高岳東部山麓部の噴気[2001年9月撮影]
写真に面している妙高岳スコリア丘の東部山腹は粘土化変質を被り,地表下1mの地中温は沸点温度に達する(松島ほか,2002など)が,噴気活動はほとんど認められない.妙高岳スコリア丘の東部山腹の岩手山神社奥宮付近に露出する溶岩岩塊の隙間から弱い噴気が上がっている.この写真は,逆光状態で撮影しているため,噴気の状態は強調されている事に注意が必要である.
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図11.妙高岳スコリア丘東部山腹 岩手神社奥宮付近の噴気[1993年10月撮影]
溶岩岩塊の隙間から,主に水蒸気からなる噴気がでている.写真撮影当時および2005年現在硫黄臭は感じられない.
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御室火口内の噴気活動
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図12.御室火口内の噴気温度
気象庁地震課(1972)より引用
スケッチの様子から,御室火口の北東側から南西方向を眺めたものと推測される.噴気は火口内西壁および下部の岩塊からあがっており,野口(1961)の観測とほぼ同位置と推測される. |
図13.御室火口南部の岩塊の隙間から立ち上る噴気[1993年10月撮影]
野口(1961)や,気象庁(1972)が報告した,御室火口内南部の岩塊の隙間の噴気地点と思われる.
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図14.御室火口底 落石の隙間からでる噴気 [1993年10月撮影]
写真撮影時少し湯気が立つ程度の噴気が確認された.無臭で手をかざしてもほのかに暖かい程度であった.地表部には長径7cm程度の噴気孔が開いている.噴気孔は土砂に埋積されず孔壁が比較的新鮮であることから,定常的に噴気が上がっていたと推測される.
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