1823年(文政六年)の記録


 岩手山北東山麓部(八幡平市旧西根町および松尾村周辺)から七時雨山南部から西部にかけての地域で,群発地震活動が起こった.激しい地震活動は文政六年八月二十五・六日〜九月初旬で,その後翌年の三月頃まで鳴動や地震が継続した.この地震による被害は,松尾村東部(野駄〜荒木田)から七時雨山山麓にかけて発生し,死者1名,潰家20,大破65(「江戸御用人所日記」),あるいは潰家105,七時雨山西方(滝不動)での山崩れのため死者69,不明4(「利敬公千代鏡」)と記録されている.宇佐見(1987)は,この地震の最大マグニチュードを5_3/4〜6と推定している.

 この地震に関連して,当時も岩手山の活動かと疑われ実地見聞が行われたが,特に異変は見いだされななきった(「内史略」).この群発地震と岩手山の火山活動との直接的な関係は不明である.
 被害の報告は,野田村,荒木田村,七時雨山(西部の滝不動)など,現在の平舘から北方の旧鹿角街道に沿った比較的広い範囲に及んでいる.また,盛岡藩に対し花輪代官所から被害の報告が上げられていることや,弘前藩が迅速に江戸屋敷に地震の被害の報告をしていることなどから考えると,この地震活動は七時雨山を中心とする岩手県北西部で,1896年の陸羽地震と同様に脊梁山脈に沿って南北に伸びる断層帯(ただし七時雨山付近には活断層は確認されていない)の活動に含めるべきであるかもしれない.
 
 盛岡藩の公的記録である「雑書」文政六年の巻は,現在残されていない.この地震に関する公的な記録として「江戸御用人所日記」があるが,これは青森藩の江戸藩邸で記録されたものである.以下に,この地震に関する代表的な古記録を示す.

文政六年八月
  二十五日夜四時半北東ノ間より鳴動如地震其後如雷しばしば鳴二十五日昼共少しつつ鳴動不絶同夜又七ツ時前夜より厳如地震鳴動し(中略) 此の辺ハ一円さわきなし (中略)鹿角辺地割家蔵損し有之様々の説也 九月十日過迄夜ニ入北の方ニヨリ候而少し鳴動の音ありされとゆりは無之 九月十二日暁七ツ時迄ハ鳴動ホノカニ承覚申也  
       *翌年春迄少し鳴候也 (添え書きあり)                     
   「島川鎌満自筆見聞録」*1 -「新 日本地震資料 に採録」-

 一 同年八月二十五日亥ノ下刻より同年九月三日迄昼毎北ノ方山震動しテ響地震のことく八月二十五六日両夜至て強く二十七日は昼夜数度震ひ九月に至漸々ニ弱く成三日の夜ニて止ム
                「著聞集雑記」*2

八月二十五日西根山鳴動初七時雨山割崩滝不動崩落右近辺家土蔵或崩或壁落る.九月三日 去月二十五日夜より度々振動にて御蔵文庫一つ南部後預リ御武具蔵一つ何れも所々破損ノ旨花輪御代官申出
                 「篤焉家訓」

 一 九月八日野駄村寺領肝入長右衛門老名孫右衛門日帰登山訴出趣,
 去月二十三日ヨリ大地震昼夜山中鳴動,日々大地震数度ニ及,百姓居宅西根八ケ村大破ニ及候由,御知行百姓万治孫右衛門居宅潰ニ相成り,外ニ御蔵百姓浅川左伝治居宅共ニ潰レ干今昼夜ノ地震故潰家シツラヒ之儀モ相成兼,差当当田畠ノ中へ小屋カケ仮住居罷在候,荒木田村之内何某給所百姓潰家ニ相成,家主圧ニ打レ相果候,(以下略)
                「寺実矩格」*4

 文政六癸未年沼宮内通ノ内西根八ケ村八月初巖鷲山ノ北方ヨリ地震昼夜数度鳴動シ,同九月二十日頃ニ至昼夜鳴動次第二強ク,度数モ相増逐日強ク,西根八ケ村家屋大方破損ノ内野駄村浅川左伝次大慈寺領万治居宅倒ル (中略) 荒木田村側某領百姓何某居宅倒ル,壁ニ打レ家主即死,八ケ村昼夜騒動,都テ男女田畠ノ中ニ戸ノ類ヲ敷並ヘ住居ス (中略) 巌鷲山中敢テ焼崩候共不見得何故ノ鳴動カ不分明 (中略) 西根八郷ノ外ハ地震モ格別二強クハ無之 (中略) 翌七甲申年三月頃マデニ段々鳴動薄ク昼夜ノ度数逐日相減漸々相鎮 (以下略)
                『内史略 後六』*3

 九月二十日頃としている古記録は,現在のところ「内史略」だけである.「内史略」は江戸時代後期にまとめられた編纂史書であるが,記述内容(特に野駄村の万治と,荒木田村での家屋損壊による家主の死亡)は,日付を除いて「寺実矩格」とほぼ一致していることから,これを出典としていると思われる.
*4「寺実矩格」は盛岡市内の大慈寺に伝わる古記録である.寺領内の地震被害者からの報告を採録したもので,その信憑性は比較的高いと思われる.「島川鎌満自筆見聞録」などの個人の記録においても,激しい地震活動は八月末から九月初旬であることが記されていることから,内史略は編纂時に地震発生の日付を誤ったと考えられる.

 なお,村上(1978)は,これ以外の七時雨山周辺の地変として,1933(昭和8)年8-9月の七時雨山東部の奥中山地方での微動および鳴動,南西部竜ヶ森地域での鳴動,1935(昭和10)年4月の奥中山地域での地響きと地震・鳴動を記録している.