1732年(享保十六十二月〜十七年一月)の噴火活動を記載した古文書・記録として,小原(1920),福田(1974),今村(1918),武者(1943),中央気象台・盛岡測候所(1935)らにより『花印』『秘旧記』『国統大年譜』『雫石歳代日記』などから噴火記事が採録されていたが,いずれも小規模な噴火活動と考えられていた.細井ほか(1993)は盛岡藩の公的記録である『盛岡藩雑書』の享保十六年及び十七年の巻から噴火記事を見出した.
盛岡藩「雑書」享保十六年の巻
所蔵;盛岡市中央公民館
表紙
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盛岡藩「雑書」享保十六年の巻 十二月二十七日の条 所蔵;盛岡市中央公民館
平笠村肝入から沼宮内代官に宛てた届け出の写し.読み下し文は下記本文参照
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細井ほか(1993)により『盛岡藩雑書』より見出された噴火記事を以下に示す.
『盛岡藩雑書(享保十六年十二月二十五日の条)』
『同(十二月二十七日の条)』
『同(十二月二十八日の条)』
『同(十二月晦日[脚注]の条)』
『盛岡藩雑書』享保十七年の巻[三月十八日の条]
また,「花印」には岩手山北東山麓の平笠村での噴火記事が以下のように記されている.
噴火活動に先立つ前駆現象として,『花印』には享保十六年十二月二十三日(1732.1.20)から岩手山周辺での地震活動の発生が記録されている.『盛岡藩雑書』十二月二十八日(1732.1.25)の条にも,平笠村で「岩鷲山十二月廿五日夜七時殊之外震動」との記述が見られる.当日の『盛岡藩雑書』には,天候の記述はあるが地震の記述はなく,これらの地震は岩手山近傍だけの局所的なもので,地下のマグマ活動に関連する火山性地震の発生を示唆するものと思われる.
1732年噴火の最盛期は,享保十六年十二月二十五日(1732.1.22)から始まった「焼崩」である.細井ほか(1993)は,『盛岡藩雑書』の噴火記事について,a)噴火活動の場所を「木立と萱之境」とした点,b)噴火の様子を「段々砂子焼崩」と記述している点,c)噴火地点が岩手火山北東部であることを示している点を指摘し,この活動が,山体の東〜北東部の山腹での溶岩流の噴出を示すと判断した.
『盛岡藩雑書』享保十七年三月十八日の条には「岩鷲山旧冬より当正月迄炎焼」,『花印』には享保十七年「正月三日四日(1732.1.30-31)迄火煙見ゆる」と記述されている.『盛岡藩雑書』の記述は享保十六年の年末に始まった一連の火山活動が享保十七年の正月まで継続したことを示しており,享保十六年十二月二十四〜二十五日に始まった溶岩の流下が享保十七年正月初旬まで継続していたことを示すと考えられる.しかし,三月十八日以降,噴火活動に関連した記事は認められず,マグマ物質の放出あるいは溶岩流の前進は享保十七年正月初旬に終息したと考えられる.
『花印』には八月十六日(1732.10.4)まで「御山近処へ行ハ 煙立見える」との記述がある.伊藤(1998a)は「煙」という語彙が用いられていることに着目し,極小規模な火山灰の放出あるいは溶岩流分布域もしくは側火口からの噴気や火山ガスの噴出が八月十六日(1732.10.4)まで継続していた可能性を指摘している.
平笠村住民が,地震が激しかったために一時避難したとの記述が『花印』に認められるが,人的・物的被害の発生を示す史料は見つかっていない.
焼走り溶岩は,岩手火山の北東山腹の側火口列から噴出した玄武岩質安山岩のアア溶岩で,溶岩じわや溶岩条溝などの表面地形がよく保存されている.
焼走り溶岩は1686年噴出物である刈屋スコリアを覆う(土井ほか,1986)が,この溶岩を覆う火山灰層の存在は確認されていない.また,新岩手火山において側火口から噴出した溶岩流は,焼走り溶岩以外には確認できない.このことから,焼走り溶岩は岩手火山最新の山腹の側火口からのマグマ噴出物と考えられる.
焼走り溶岩の噴出年代は,桜井(1903)に基づき,享保四(1719)年と考えられてきたが,すでに述べたように,その根拠となった古文書の信憑性は薄い.一方,盛岡藩の公的日誌である『盛岡藩雑書』の享保十六年十二月二十五日〜晦日,同十七年三月十八日の条に記述された噴出火口の位置・噴火の様子は,焼走り溶岩の噴出口の位置や溶岩流流出の様子を記述したものとして妥当な記述である.また,空中写真判読により焼走り溶岩の微地形を観察すると,複数の溶岩ローブが観察され,溶岩流出の期間が数日に及んでいたことと調和的である.以上より,焼走り溶岩は1732年の噴火活動によって噴出されたと判断される(伊藤,1998a).