1729年(享保十四年)の記録
村井(1974)は,『雫石歳代日記』に享保十四年に「岩鷲山殊之外焼申候」との記述があることを紹介している.原典には以下のように記述されている.
「同年十四己酉年同十五庚戌年山津田薬師堂杉四本帆柱ニ剪…。姥杉ハ同十六年外ニ三本ハ…板ニ引申候而払申候,是ハ雫石町…御普請仕候、同年六月之頃篠木禰宜と川又西福院と領地境の押合ニ而岩鷲山殊之外焼申候。其時禰宜殿京都へ登リ吉田様へ御対面其品申上候得ハ御尤ニ被思召篠木禰宜支配ニ相成其上官位ものぼり鳥類弐足ハ御免四足ハ御免無之候。…」
伊藤(1998a) は,1)この記事の内容は,篠木村禰宜と川又村西福院による領地争いとその後の顛末に関する記事であること,2)「岩鷲山殊之外焼申候」という一文は領地争いの激しさを示す比喩として記述された可能性が高いこと,3)篠木村禰宜と川又村西福院による領地争いは元文三(1738)年の出来事であることを指摘し,1729(享保十四)年に噴火活動は実在しない可能性が高いと判断した.