1687年(貞享四年)の記録

 貞享四(1687)年に噴火活動が存在したする下記の古記録の存在が知られている.

「一 貞享四年丁卯三月七日より十六日迄 御山霧霞鳴渡り 日々地震昼夜不絶有之 五月廿七日 御祭礼に導者御不動平迄参詣す…御不動之手前 長根一間程割 御室の内煙りにて 拝み不申 心も不定 早々に下向仕候なり同二十六日地震強しと申事に御座候
 同六月地震 巳酉の日 御殿を見分に被掛 其時拝み申所に 御炎焼は右の通焼火不止して 炎焼灰 岩鷲山の肩三十六童子の御辺迄 所々霧霞鳴渡りさみしく 心も不定して下向す」

『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]

 伊藤(1998a)は,盛岡藩の公的記録である「盛岡藩雑書」の貞享四年の記述と比較・検討し,その結果,上記の噴火記録は盛岡藩の公的記録と矛盾し,年号が誤記されている(本来は貞享三年の出来事)と指摘した.

 また,土井(2000a)は,貞享四(1687)年に硫黄山噴気の発生を指摘しているが,それは下記の古記録を根拠としているようである.

「(前略) 五月二十九日御祭礼之節参詣仕候処御山模様右之通リニ御座候天ノ西硫黄山五丈余リ底ニ焼ケ入リ小石を沸出シ (以下略) 」
『大沢村旧書記』

 年代については,『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]と同様に,貞享三年と記載されるところが誤記されたものと判断できる.また,記載内容の解釈については,岩手火山において「硫黄山」と呼ばれた地点は,妙高岳中央火口丘の南側の火口縁であることが桜井(1904)によって,図示ならびに記載されている.従って,大沢村旧書記の記述は,貞享三年五月末に御室火口での小規模な噴煙活動を記述したものであると判断される.

 以上のように,貞享四年に噴火活動が発生していたとする信憑性の高い古文書記録は存在しない.