1686年(貞享三年)の噴火記録
 伊藤(1998a)に基づいて1686年噴火に基づき,この噴火記録について解説を行う.
a)噴火記録 
b)噴火の開始
c)噴火の最盛期と経過
d)噴火災害と盛岡藩の対応
e)噴火活動の終了時期
f)1686年噴火堆積物と古記録の対比

a) 噴火記録 

 『盛岡藩雑書』は貞享三年の巻が欠落しているために,この活動に関連した公的な記録の原本は残されていない.しかし,『盛岡藩雑書』享保十六・十七年の巻から,以下の様に貞享三年三月の噴火の発生を示す記述が見出されており(細井・他,1993),貞享三年に岩手火山が噴火活動を起こしたことは間違いない.

「…尤先年焼候節御祈祷ニても有之候哉と為相尋候処貞享三ヒノエ丙寅三月二日初て大焼仕比節旨程焼候節当寺御祈祷被 仰付候段申伝候由書付を以訴出ル
『盛岡藩雑書(享保十六年十二月二十七日の条)』
「…貞享三年岩鷲山炎焼之節自光坊御祈祷勉候由御留ニ有之候間相尋候様ニ寺社御奉行へ申渡候…」
『同(同年十二月二十八日の条)』
「…貞享三年炎焼之節 公義へ被 仰上候…」
『同(享保十七年三月十八日の条)』
b)噴火の開始

 貞享三年三月三日夕方(1686.3.26)には山頂部から立ち昇った噴煙が盛岡城から確認された.

「…去る二日空曇雪少々降 雷之様に明方鳴申候 同城下南之方流申候北上川 水濁魚抔流瀉候…七ツ時前より空晴城下より西 岩鷲山と申山煙立」
『内史略(前10巻21条)』

 『内史略(前10巻21条)』に掲載された南部重信の書状は貞享三年二月二十九日の状況から書き起こしているが,三月二日(1686.3.25)の早朝には盛岡城下で音響が確認されていること,当日すでに北上川に流木や家財の一部が流れついていることが記述されている.三月三日まで噴煙が確認されなかったのは,天候が悪かったため盛岡城から岩手火山の様子を目視出来なかったに過ぎない.

 三月三日以前の状況を伝える文書として,岩手神社の修験者である自光坊らが,祈祷のために山麓に赴いた際の見分を寺社奉行に報告した実見録がある.

「…山之鳴出申事は 柳沢住所之者共申候は 如何様十日斗巳前よりとは申候得共 先は二日より四日迄夥敷鳴響申候」
[自光坊,無量院,成就院,慈重院,慈学院,普明院,役僧定学院 其節見届注進申上候書付]

 なお,三浦(1893)には,「貞享三年二月二十九日天暗黒トナリ夜二至リテ灰色ノ降雪アリ 続テ翌月一日迄暗黒ヲ呈ス」との噴火記事が掲載されているが,原典が明記されていないこと,全体として噴火活動を誇張するような記述になっていることから,三浦氏による解釈が混入していると考えられ,信憑性は低いと判断されている(伊藤,1998a).
 以上より,岩手火山における爆発的な噴火活動は,遅くとも貞享三年三月三日(1686.3.26)の午後には始まり,盛岡城下にまで届いた音響や北上川の流木の様子などから判断すると,同年三月二日(1686.3.25)早朝には既に噴火活動が開始していた可能性もある.

c)噴火の最盛期と経過

 岩手火山の周辺に火山灰を降下させた噴火イベントが,1686年の活動の最盛期と考えられる.盛岡城下への降灰が始まった日付については,三月三日(1686.3.26)の夕方とする南部重信の書状を基にした史料群と,同年閏三月三日(1686.4.25)とする厨川代官らの実見録を基にした史料群があるが,伊藤(1998a)は,南部重信の書状は,書状の日付と噴火記事に矛盾がなく,調査に向かった厨川代官の見分報告の概要が引用されている事から,三月三日(1686.3.26)が噴火の日付を正確に書き残したものと判断した.

貞享三年三月三日(1686.3.26);盛岡市内での記録
「…七ツ時前より空晴城下より西 岩鷲山と申山煙立 及暮申に随 火気幅一間長さ十丁に及見得 城下迄灰降申候…」
『内史略(前10巻21条)』
同 午後6時頃;盛岡市内から市街地での記録  
「…酉の刻盛岡出立 闇の夜にて炎焼灰 悉くふり提灯も不叶程にて 側なる者も見得ざる故 提灯持参り然共 風はげしくして みの笠にて出立 夕顔瀬の橋より岩鷲山御天を見渡し候得ば御山の内東平ら皆焼候て相見得候 古舘辺を通り申候得者生臭き北風来る…」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]
同 夜半;山麓での記録
「…三日之夜 柳沢に居申内 稲光強く御山も以之外震動仕候…」
[自光坊並びに常法院,定学院,正明院,妙楽院,御山へ参見分仕亥之刻登城様子申上候 覚]
「…御天は稲妻甚しくて 火柱二本立 一本は北の方へさる 一本は国見峠に火移り 天上には青雲白雲赤雲雷雹以ての外なり 五間七間(9-12m)程の大石へ火付令 飛諸木大小によらず 角掛へ飛落る音は 地震雷濤もかくやと申す斗りなかりける 煙へ灰交り降り一切側なる者も見得ず 互に声を聞く計りにて 御代官も下馬して上下一所に立並び 提灯取込ひしめき 色を失い青くなる 何れも ものを不言…」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]

 貞享三年三月三日(1686.3.26)午後4時頃に岩手火山山頂の噴煙が盛岡城下から確認された後,噴火が激しくなり,暮頃から盛岡城下に降灰が始まった.山麓では火山性地震と噴火音が一晩中続いた.

 貞享三年三月四日(1686.3.27)には,噴火活動はおさまってきたようである.この日の噴火活動は以下のように記述されている.

貞享三年三月四日の朝;盛岡市内での記録
「…四日之朝 明方迄は火見得申候 夜明申候得は 山へ雲懸相見得不申 然共雲の内は煙之様に相見申候…」
『内史略(前10巻21条)』
四日の朝;山麓での記録
「…六つ半過(AM 7)に参候得ば 旭も見えず朧月より闇く…五つ (AM 8-9)時分少々雲合能く…」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]
「…四日之巳之刻(AM 9-11)過ぎより鳴りも少々静申候…」
[岩鷲山焼申に付自光坊並びに常法院,定学院,正明院,妙楽院,御山へ参見分仕亥之刻登城様子申上候 覚]

 三月四日には天候が再び悪化し山頂部の観察が困難になったため,詳しい噴火の様子は記述されていない.伊藤(1998a)は,盛岡城下と山麓部の双方で,三月四日の記事には降灰の記述が見られなくなること,山麓部では噴火による音響も静かになってきたことが書き残されていることから,噴火活動の最盛期は,三月四日(1686.3.27)の午前中に終了したと考えている.

d)噴火災害と盛岡藩の対応

 1686年の噴火活動においては,人的な被害は報告されていないが,以下の様に土石流による家屋・家畜の被害発生の記録が残されている.

「…四日の朝…山の端へ眺下り見申候所 土水火交さんざんに流たりける 麁朶の葉に火は付く 小木大木根より押出夫々 又硫黄に火付き焼来る 扨又五つ時分少々雲合能く 長込より見渡と候得ば 先年より御假屋場と申所迄 火水昇り 上下通りの家見不申 方々見渡候所に 屋根に見ゆるは其上に 人一人見得…此人漸々を出し言ける…川より此方の家四軒 馬一疋家財迄皆流し申侯…家財残ず流候者は 与ニ郎,左博治,勘作,三九郎,長七 五人なり 外二郎左衛門,與四郎,惣治郎,右衛門三郎 此人々は 留谷森へ引越 家財等を 梁りの上にあげ 兎や角と仕候内に 橋落申候得ば 通路難成…」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]

 厨川代官らは,三月四日の早朝に土石流を目撃するとともに,家屋の屋根の上で救助を待っていた「右衛門三郎」という被災住民の証言を得た.「右衛門三郎」の証言によると,土石流によって5軒が家屋・家財を流失,4軒は家財を梁に上げて避難したらしい.厨川代官らが泥流を目撃した場所は明確ではないが,多くの噴火記事が,土石流により被害が出た地点を「角掛村」としている.

 一方,自光坊ら修験者は三月三日の夜から四日にかけて柳沢周辺での実見録を以下のように書き残している.

一 去る三日之晩丑之刻柳沢え参着 一宿仕御祈祷申上…」
[岩鷲山焼申に付並に常法院,定学院,正明院,妙楽院,御山え参見分仕亥之刻登城様子申上候 覚]
一 巌鷲山炎上仕候に付て 自光坊同行を率而 三日三夜亥刻に爰元を罷立 柳沢へ子刻に着申候 其夜は新山堂に籠…」
[自光坊、無量院、成就院、慈学院、普明院、役僧定学院其節見届注進申上候書付]

 修験者らは三月三日の夜に柳沢の岩手山神社(新山堂)に一泊し,柳沢集落における火山災害の発生を報告していない.このことから,1686年噴火による災害は,角掛村周辺の泥流被害だけであったと判断される.なお,角掛村は現在残されておらず所在地は明確でなかったが,伊藤(1999)により現在の一本木集落の南部地域と比定された.

 盛岡藩が泥流被害を被った角掛村住民に対し米・食料を配給したことを示す複数の記事がある.

「一 同日角掛村 右衛門,三郎,三右衛門,與三郎小次郎,長七 此五人 今度岩鷲山焼ドロ水流 家居家財飯米押流 渇命におよび候に付 御米貳駄稗五駄 右之者共に被下之 」
『岩手山記』第2章7節の一つ書き噴火関連記事
「此時此辺石砂降て 田地悉く荒廃す 然れ共角掛村は一里継立の場所ゆへ なくて不叶村ゆへ 是より年々春秋に御手当賜ると云々」
『内史略(前4巻29条)の補追文』 

 『盛岡藩雑書』の貞享三年の巻が失われていることから,この記事の信憑性を確認することはできなかった.また,『内史略(前4巻29条)』の補追文には,角掛村に対し噴火後数年間に渡って藩からの被害救済が行われたとの記述があるが,これについても『盛岡藩雑書』貞享四年,元禄二年の巻では確認できなかった.

e)噴火活動の終了時期

 貞享四(1687)年,元禄二(1689)年の年号が記述された噴火記事が存在することから,1686年に始まった噴火は数年間継続したと思われてきたが,噴火活動とは無関係の記述であったり,年号の明らかな誤記が確認され(伊藤,1999),貞享四年以外に噴火活動の発生を示す古記録は現在のところ確認できない.

 今日の火山噴火においても同様であろうが,一般に噴火活動終了の判断を下すことは,困難な場合が多い.特に,岩手火山は「山上に岩穴あり…硫黄常に燃へ 雲霞山を巻 山上窪中に有山 燃火嶽と云う」([岩鷲山神位之事])と伝えられるように,山頂火口付近からは恒常的に噴気が上がっていたと思われる.噴火活動の終息を判断するには,噴煙の有無を確認するだけでは不十分で,火山物質の放出が継続していたか否かを文献史料から読みとる必要がある.

貞享三年 三月半ば頃
「…其後十日斗りの内 御山御天鳴渡り 焼石共飛落姥屋敷辺迄参り候…」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]
同年 閏三月七日(1686.4.29)
「一 御嶺え上り見申候得者 三十六童子御部屋 一切見得不申 平地に罷成候 
 一 モエ火カ嶽之腰通より焼出穴明候 深さ四五丈程に相見得惣様焼申候」
[雫石猟師長五郎,長三郎,與左衛門,惣十郎,岩鷲山見分之覚]
同年 三月七日より十六日迄
「御山霧霞鳴渡り日々地震昼夜不絶有之」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]
同年 五月二十七日(1686.7.17)
「御祭礼に導者御不動平迄参詣す 其内二三人も御殿拝み申度とて御不動平坂峰上り拝み申所 岩手の御不動の手前長根一間程割 御室の内煙にて拝み不申 心も不定早々下向仕候なり」
『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事]
同年 五月二十九日(1686.7.19)
「御祭礼に付参詣仕 御山模様右の様に無御坐 御殿の西硫黄山 五丈餘り底へ焼入 小石砂を拂出…御山三十六童子之岩も相見得不申様に 石砂を上げ御坐候由 見分仕罷下り候…」
『岩手山記』第2章6節の一つ書き噴火関連記事

  伊藤(1989a)によると,三月半ば頃まで,噴火音と噴石の放出が記述されて[岩鷲山御炎焼之事]については厨川代官らが盛岡城内で見分報告を行った後の顛末を記した一文で,信憑性は比較的薄いと判断する一方,雫石猟師の実見録[雫石猟師…岩手山見分之覚]には,閏三月七日(1686.4.29)の観察事項として,御室火口底が見えていたと考えられることから,噴煙(あるいは噴気)活動は閏三月七日(1686.4.29)には終息していたと判断した.
また,内容が不明確な噴火記事が貞享三年九月(1686年11月)まで残されているが,貞享四(1687)年,元禄二(1689)年には信憑性の高い噴火記事は残されておらず,1686年噴火は年内に終息していたと判断した.

f)1686年噴火堆積物と古記録の対比

 刈屋スコリアはその層位および複数の14C年代(浦部,1975;土井・他,1986)からを1686年噴出物とする解釈とは矛盾は無いと判断されている(伊藤,1989a).また,土井(1990)が示した刈屋スコリアの等層厚線図は北東と南東を向く2本の分布軸を持ち.このうち,南東に広がる分布域が盛岡市を包んでいることから,貞享三年三月三日(1968.3.26)の夕方から始まった盛岡城下への降灰が,このテフラをもたらしたイベントであったと考えられる.

 藩命により岩手火山の状況視察を命じられた厨川代官らの見聞録(『旧蹟遣聞』欄外記事[岩鷲山御炎焼之事])によると,盛岡城下を「酉の刻(PM5-6)」に出発した後,「国見峠」に到達し,そこで「焼灰一尺二寸(約30cm)斗り成が降り」との記述を残している. 伊藤(1998a)は『岩手山柳沢境図』(盛岡市中央公民館所蔵)から「国見峠」を見出し,その地点を現在の一本木上郷付近に対比した.この地域は刈屋スコリアの2方向の分布域の間隙に相当し,現在刈屋スコリアの分布を確認する事はできず,噴火記録の記述と一致しない. これに対して,伊藤(1998a)は,1)夜間にしかも活動中の火山の近傍での行動であったため,代官ら一行が現在地を間違った可能性ー,2)噴火から約300年を経過した現在では堆積物が確認されない地域でも,噴火直後には層厚数cm程度の降灰があった可能性,3)夜間における噴火中の火山近傍で極度の緊張状態の基での誇張情報である可能性を指摘している.

 また,伊藤(1998a)は,土石流による家屋の被害が発生したと伝えられる「角掛村」は,絵図との対比によりにより現在の一本木集落の南部に比定し,自光坊ら修験者の実見録[岩鷲山焼申に付並に常法院,定学院,正明院,妙楽院,御山え参見分仕亥之刻登城様子申上候 覚]における「火者御八葉之内もゑ火嶽と申より龍ケ馬場え焼崩 大堀え大石共夥敷押込申候 峰より崩申石共 御山之平に留り焼申候 大堀の底に崩有之候 石とも焼居申候 水色光明朱之ごとくにて 岩之底より見得申」という記述は,1686年噴火で発生した土石流は大堀を流れ下って砂込川に入り,現在の一本木集落南方の角掛村で家屋に被害をもたらした可能性が高い事を指摘している.